ついに、ATOKもバージョン20だ。ここまで一つのソフトを使い続けるというのは凄いことかもしれない。
毎回の感想だけれど、使い勝手はそれ程変わらない。昔からFEPで入力している人間のクセだとは思うが、それ程の長文を一気に変換したりしないで、ほぼ単文節で変換→確定してしまうから、僕の場合には、実は構文解析の能力というのはそれほど問われないという気もする。ただ、なんとなく引っかかってしまう変換の場所というのはあって、ATOKのバージョンが上がるにつれて、そこらへんがどんどん減ってきている気がする。FEPなんて、もうこれ以上進化させるところもないだろうと毎回思うのだが、無駄で無意味な機能を増やすわけでもなく、きちんと改良して出してくるところは凄い。
ある種の節目となるversion 20は、変換エンジンも少し変わったようなのだが、それでもいつものATOKだ。アップグレード優待で、ダウンロード販売を利用すれば、かなり割安で利用することができる。インストールしてみた限りでは、少なくとも、重くなったりはしていないので、ホッとした。version18→verion19の時よりもアップデートは簡単になっているし、設定の引き継ぎも容易になった。FEPの用に毎日利用するものは、セットアップして直ぐに使い始めることができるというのはとても重要なことだ。ちなみに、カレットの近くに表示される変換モードを示すポップアップが、version 20から半透明になっているのだが、これはなかなか見た目が良くて気に入った。
ATOKは色々な機能を持っているのだが、僕の場合あまり高度な機能は使っていない。まずカスタマイズ可能なキーアサインはIMEに揃えている。これは、複数のPCを使うことも多く、操作方法だけはデファクトに合わせていた方が便利だからだ。英数字は半角変換にして、あの忌まわしい全角英数が変換候補にも出ないようにしている。これは精神衛生上とても良い。変換方式は、しゃべり言葉を優先していて、漢字の割合は低めになるようにしている。その方が読みやすいからだ。また、意外と助かるのは、ローマ字変換時の、打ち間違いの自動訂正。多少のタイプミスがあっても、ATOKの方で正しいと思われるタイプに直してくれる。
ATOKを使い始めてから、もう10数年になるので、自分の書き方と機械のクセが一体になっている。基本的にMicrosoft IMEは実行されないようにしてしまうのだが、完全にアンインストールすることが出来ないので、気がつくとFEPがMS IMEになってしまっていることがある。入力していて、「なんかいつもと違う!」と思うとIMEになっていたりする。それだけ、自然になっているのだと思う。
ATOKと紙copiの組み合わせで、軽く文章を書いていくと、なかなか楽しい気分になる。「書ける」という単語を、ちっともちゃんと変換できなかったATOKは、気がつけば、ちゃんと変換できるようになっている。もっとも、それがATOKの幾つのバージョンからできるようになったものなのか、そのあたりはさっぱり分からないのだが。
引っかかりがどれだけ無く入力ができるか。どれだけその存在に気がつかないか。それが、おそらくはFEPの至上命題なのだと思う。であれば、この何が変わったのかよく分からないが、より気配が薄くなった20というバージョンには価値がある。
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ひろゆきblog
ひろゆきblogを読んでいて、こんなコピペを見つけた。
メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、
女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、
漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」
上のコピペには多分、色んな考え方・感じ方があるんだと思うけれど、これに対するひろゆき氏の意見というのは、凄くニュートラルというか、凄く正気だなぁと思って読んだ。
心の平穏を何によって得るか。いつ得るか。誰と得るか。そういうことを考えないといけないなと、思う。それは人によって違うカタチ。だから、自分で考えるしかない。
ちょっと前に、どこに出張してもメールが読める環境を整えないと落ち着かない、という話をしている人が居た。出張に行くのでも、まず、そこがネットにアクセス可能か、VPN が通るか、そういうことが気になって仕方がないというのだ。そして、そういうことを気にしない人間は、「我々とは違う人種だ」と言っていた。
そういう価値観もある。僕はもう、そんな風には思わない。少なくとも、そういう仕事の仕方をしたいとは、思わない。
モノを持ち続けようとすることは、未来の自分に対する不信を表わしている。そういう風に風水の本に書いてあって、なるほどと思った。
お金をえんえんと稼ごうとする事も、それに似ているような気がする。
※コピペなので、作者不詳です。