ということで、高層公団住宅から東京湾の花火を見てきた。家から花火を見るくつろぎ加減というのは別格で、かつて学生の頃に開港記念花火で混み合う臨港パークから、快適そうなインターコンチネンタルホテル(確か花火宿泊プランがある)を見上げた積年の恨みを晴らす思いだ。
鮨・蟹・日本酒という、いけない組み合わせも、夏の夜一晩ぐらいいいじゃないか、というそんな気分。
今は会社を異にする昔なじみの幾人かと、たまたまつながりの新しい幾人かが、なぜか一つベランダで花火を見る。お祭り特有の、まあいいじゃないか的、あるいはベンチャーの決起集会かと思うような、ゆるい空気が素敵な夜だった。
カテゴリー: 芸術&写真&音楽
音楽の浸透圧
音楽には浸透圧のようなものがあって、その時の気分とあえば、スッと体に入ってくる。
それが見つからなくて、夜中に CD をえんえんとかけかえたりすることがある。
夜に何を聴くかと考えると、定番と言われる Glenn Gould の Goldberg Variations. この曲、そもそもはある伯爵の不眠症を癒すために作られた、言ってみれば子守歌だ。その鮮烈な演奏に、1982年の解説書には、「子守歌の効果をひきだす ことは不可能であろう」とあるが、神経が高ぶっているような時は、かえってよく眠れる。ちなみに、僕が聴いているのは、Gould 最晩年の録音、そこにある静謐。
人間は衰えていくものだけれど、年を経てもっと自然に、自由になるってこともある。昔、まったく良いと思わなかった歌手が、ふとすごく抜けて、良い感じになっていたりする。YUKI とか。
そういえば、世代的には YUKI って、多分リアルタイムだとは思う。(当時はバンドだったけど)
M-ON! あたりで最近やたらに流れている JOY って曲がなんとなく気にいっていて、力の抜け方が、聴いていてとても気分が良い。PV での格好は、あしたまで(年に 3回ぐらい見る)「下北沢でパンを買いに並んでる女子」なんて言われていて、言い得て妙だけど。(頭が二色になってるし)
CBS SONY, “Glenn Gould, Goldberg Variations” 解説書から、1982年、諸井誠。
愛
えーと、これは愛だそうです。確かに愛かなぁ。2つになってんだね。
岡本太郎記念館の2階、この FRP 製の作品「愛」は床の上に転がっている。いや、置いてあるんだろうけど、周りに柵もなにもなくて、好きに見られる。回り込んだり、しゃがんだり、座ったり、、はさすがにしないけど。
別の部屋には、同じく太郎の「作品」である椅子が置いてあるのだが、あまりにもそっけなく置いてあるので、みんな作品とは気がつかずに、座ったり荷 物を置いてみたりしている。「作品」に腰掛けて、「うーん」みたいな表情で壁にかけられた「作品」を見ている人。なんとなく、微笑ましい。
太郎の作品は、どれも、「これって、どう思われるかな」なんて考えていなくて、「こうだっ!」という強さがある。羊ページと大違いだ。自分が感じたことを信じること、それをそのまま表現するリスクを恐れないこと、いや、恐れたとしてもやってしまうこと。
なんて疲れそうなやり方、と思うけれど、それでなくてはいけないのかもしれない。人生は短いんだから。(黒澤明の「生きる」を見たりしたものだから、こんなことを書いてるのかも)