フォトエッセイの記事一覧(全 318件)

思いもよらない支持者

Photo: “Khao Yam.” 2025. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.
Photo: “Khao Yam.” 2025. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.

ごく日本風にArrangeした高級タイ料理、というのに惹かれて、この店を選んだ。面子は3人。取引先で今度実質的な社長に昇格するIさんと、それとはまた別の会社の社長 Tさん。会はTさんが設定してくれて、店は料理と酒にとことん人生を費やしている彼女のリストから選ばせてもらった。

Iさんの昇格祝いを兼ねているのだが、そのIさんは、実は当初そんなに印象に残る人ではなかった。現場に来ているちょい偉い人、ぐらいの認識。そんな彼が、僕を評価してくれていて、影のサポーターであった事に、最近まで気がつかなかった。「あの人、凄いファンだから。」Tさんから、そう教えられたのは、出会いから何年か経ってのことだった。自分が気がつかないところで、自分を助けてくれている人が居る、そういう事は人生の勇気になる。


日本の素材をタイ料理の手法で処理し、日本のやり方で仕上げる。そういうレストランというのがどれ程あるのか知らないが、僕にとっては初めてのものだった。古代米、鮟鱇の肝、苺、ナッツ、レモングラスなどによるKhao Yam。見た目の美しさ、だけではなくて、混ざった素材のバランスが秀逸。少しのナッツが、タイ料理の感じを高める。

タイ料理の味わいが含められていて、それでいて、日本の素材でできている。タイ料理じゃない素材を組み合わせて、でもこれはタイ料理だね、という感じがちゃんと出ている。遊んでいるという感じがする。好奇心を忘れないで、いろんな新しい組み合わせに挑んでいく、楽しいディナーだった。Tさんから、料理にココナッツオイルを使うと、ちょっと新しい世界が見えるとか、そんな事も教わった夜だった。

自分の昇格祝いも兼ねた席に、お土産としてお気に入りの最中まで持参したIさんは、きっとうまくいくと思う。

マックでバイトしたい上司

Photo: “Big Mac accelerator.” 2025. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.
Photo: “Big Mac accelerator.” 2025. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.

世に知られた外資でマネジメントをしている人が、副業としてマックでバイトをしたいと口走っているらしい。そして、面接を受けてきたらしい。

機械的なインタラクションだけをしていたい。ディシジョンしたくない。指示待ちだけしていたい。間違っても、バイトクルーのリーダーになってなりたくない。クリエイティビティー?不要。その気持ちは、しみじみ分かる。僕だって、ラッキングして、インストールするみたいな仕事がしたいと言うと、冗談だと思われる。でも、別にそれほど冗談でも無いのだ。

よかれと思って、偉い人々に選択肢を提示するのは、たいてい、裏目に出る。決断する事に疲れているのだ。落とし込みたい結論と、妥当性のあるエビデンスと、ちょっとした質問をさせる遊びの用意。そうあるべきだ。


それはさておき、スーパーで売っているハインツのアレ。ビックマックをよりアクセラレートできるのではないか。ビックマックを分解して、アレを山盛りかける。その味わいは、確かに期待に応えるものだった。(飽きる)

写真美術館、残らないもの

Photo: “A Mountain of Images. / Yuki Harada” 2024. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.
Photo: “A Mountain of Images. / Yuki Harada” 2024. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.

年末の写真美術館は、程よくガラガラで、いつもながら空いている。空いている美術館ほど、良いものはないが。


今の写真家の作品を集めた展覧会「現在地のまなざし」3階の展示室を出ると、そこには紙焼きの写真の山が、「写真の山」という名前で展示されていた。産廃業者や、不要品回収業者などに、他のゴミと一緒に引き取られた古い写真は、売り物になるモノは売られ(それが、売られるのだという事に衝撃を受けた)、売り物にならないモノは捨てられる。その、捨てられる写真を集めた展示だという。

これがあと100年か、200年すると、歴史を記録した史料になり得るのかもしれない。しかし、現時点でそれは、誰にも顧みられない、無価値なアナログデータで、そして忘れ去られている。家族写真とか、旅行か何かの記念写真とか、製品のサンプルを撮ったようなものとか、そこに絡みついている日常とか人生のボリュームは重く、「手に取って良い」という展示の注意書きにも関わらず、ポジフィルムを数枚光にかざすのがせいぜいで、紙焼きを手に取る気にはとてもならなかった。


物理的なゴミとして、何に繋がることも無く朽ちていくのが良いのか、あるいは、我々が無邪気にネットに上げている、日々のイメージのように集合知たるAIの記憶の一部となり、何物かにはなり、忘れ去れることが無いのが良いのか。

※本展示については寄りで撮らなければ、掲載OKとの事。