春節

Photo: "Tokyo Tower."

Photo: “Tokyo Tower.” 2017. Tokyo, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujinon XF23mm F1.4 R

日本は、今頃お祝いかな?

スウェーデン人から、あまり要領を得ないLINEが来る。お祝い?何のことだろう。そうか、春節みたいなもののことを言っているのか。いや、日本はあまり祝わない。スウェーデン人の誤解だ。確かに、割と多くのアジア圏で、旧正月は祝われる。過去への決別というか、執着の無さという点で、アジアの中でも、現代の日本はやっぱりちょっと違っている。


夜、集まりが終わって坂道を少し歩く。土地勘が無いので、家の方向に行っているのか、とんでもなく外れているのか、よく分からない。それでも気分良く歩ける。よく後輩と、何キロも意味も無く夜の道を歩いた。こんな冬の終わりみたいな時期も、歩いた。寒すぎて、ドンキでパーカーを買ったりした。

今日は、一人で歩いている。際限なく歩くわけにも行かないので、信号待ちをしていたイカツい漆黒のホンダの個人タクシーに、手を挙げた。


「今日は、陽気が良いですから、人が多いですね」

初老、と言って良い運転手は、気さくに話しかけてきた。この仕事は一期一会だから、お客には必ず一言話しかけることにしている、と、元自衛官の運転手は言っていたな。そんな事を思い出す。彼も、今では某区のタクシー協会の理事になってしまっている。最近連絡したら、理事はあまりタクシーには乗らないらしい。

少し乗って、突然

「今日は東京タワー見られました?」

と訊いてくる。いや、今日は東京タワーを見てない。日々のほとんどは、東京タワーは見ない生活だ。

「春節でね、今日は真っ赤になっているんですよ」

そう言って、1分も経たずに、ビルの谷間からちらりとタワーが見えた。予想と違って、全体が赤いのでは無くて、大きな赤い斑点が、タワーの輪郭を浮かび上がらせていた。

そうか、中国正月か。台湾華語でも勉強するか。

Spotifyの音質の悪さと、Hi-Resが蘇らせる空気

Photo: "Music"

Photo: “Music” 2006. Tokyo, Japan, CONTAX T3 Carl Zeiss Sonnar T* 2.8/35, Kodak EBX.

Spotifyの音質の悪さは、その筋の業界で働いていた友人に言われて改めて気がついたのだが、そう言われてみると、なんとなく我慢ならなくなって、またApple Musicをアクティブにしてみる。もうLosslessでの提供は当たり前になっていて、(彼らの考える)重要な、あるいはポピュラーなアルバムは、Hi-Resで提供されていたりする。違いが分かるのか?と言われれば、流石にHi-Resだと分かってしまう。理屈は分からないが、分かることは、分かるのだ。


Hi-Resになっている基準がよく分からないが(調べてもいないが)、新譜・旧譜はあまり関係ないようだ。尾崎豊が軒並みHi-Resになっていて、改めてちゃんと聴いてみると、一曲ごとに録音の空気感が全然違っていたり、そういうことを三十年とかそういう時を超えて気がついたりする。そうして、あの頃の、なんにもない空気感、突き放されたような、それでいて、なんでも持っているような、そんな感じが蘇る。人は、昔の曲をそういう想いをもって聴くのかと、そういう事に思い当たり、残念な気持ちになる。

始発を待つ冬の払暁の冷え切った空気とか、カラオケボックスの饐えた煙草の臭いとか、歌舞伎町の街頭に出ている屋台の具のないラーメンとか。そういう、キーワードに導かれた記憶なのか、擬似記憶なのか分からないものが意識に沸き上がってくる。

自分がやっていることは、たいして変わらない。面白いと思うことも大して変わらない。売れない芸人が抜けられないのは、金以外は全部ある、終わらない、というか引き延ばされた青春みたいなものがそこにあるせいだ、というのを錦鯉のしくじり先生でやっていて、そういえば、俺の青春はどこで終わったんだっけ?とか思ったりする。

The mind is flat.

Photo: “菊花”

Photo: “菊花” 2001. Shinjuku, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Planar T* 1.4/85(MM), Kodak EL-2

The mind is flat. (邦題は、”心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学”)読み進めるほどに、諸相がつながる、そんな本に毎年1冊くらいは出会うが、今年それを体験したのはこの本だった。東洋の釈迦の教えも、西洋のマインドフルネスも、心の表層に生成される感情と反応への、正しい対応のあり方を説いている。そんな感情・反応といった、意識の「表層」として西洋の科学が捉えてきたものが、実は、意識「そのもの」である。それがこの本の冒頭で語られる結論であり、西洋科学がようやく東洋に追いついたのか、という気分になる。


目新しくは無い。日本人として、既に知っている事を、科学によって説明されている。そういう既視感がある。この本が刊行されたのは2018年で、これはGPTが産声を上げたばかりの時期だが、この本の序章の恐ろしさは、今だからこそ一般の我々にも肌身で分かる。LLMがやっている文章の認識と生成。これは、(もの凄く端折って言えば)文章の直前のコンテキストとそこから取り得る可能性を、既知の学習データから生成することで、何故か「知性」の存在を感じるに足るリアルさをもった回答を得ることができる技術だ。それは、何故なのか?深層心理も、考える仕組みも、意識も、持っていないアルゴリズムが、なぜそのような真に迫った回答を返してくるのか。


「それは、人の意識が同じアーキテクチャだからだ。」という恐ろしくも単純な結論が、序章で既に浮かび上がっている。脳のモデルをプログラムの形で実装することが失敗したのは、そもそも我々のアウトプットが、コーディングされたルールのような系統だったものではなく、ニューラルネットワークで示されるような、入力に対する反射的なアウトプットである事に原因がある。もちろん、我々の身体には、脳のカーネルと呼べるような永続的な部分も有るのだろう。例えば、感覚器官との接続などのBIOSのような部分を担うところは、確かにプログラムのような、コードのような要素であり、ハードコードされているようだ。しかし、「個」のようなものがコードのように脳の中に存在している可能性は低い。意識は、脳のインフラの上に浮かんでは消える(KillあるいはExit)アプリケーションなのではないか。その結果のいくらかは、永続的記憶に経験値としてコードされ、大半は忘れられ(パージ)ていく。そんなモデルの考え方が、いとも簡単に立ち上がってくる。

だから、AIがシンギュラリティになる。のか?そこまでは、よく分からない。しかし、この本で語られているモデルが突きつける、冷たい刃のような納得感は、拭いがたい。