肉体労働、あるいは梱包の楽しさについて

いつもは、MDウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んで、やる気無さそうにモニターに向かいながら、データーベースのチューニングをやっている(本人の内面的にはやる気があるのだろうが)友達のコンサルタントが、今日は肉体労働をしていた。

妙に生き生きして、楽しそうだ。Yシャツ姿に腕まくりで、やる気がみなぎっている。

マシンルーム(大型コンピュータ専用の部屋)の隣にある休憩ゾーンで、いがいがした味のお茶を飲みながら、傍らでそいつが嬉々として段ボールに、ビニールの緩衝材を詰め込んでいる光景を眺めていた。

行われている作業は、大人が数人は入れそうな巨大な段ボール箱(いわゆる木枠付)に、ハードディスクの入った箱をえんえんと詰めるというもの。いわゆる、梱包である。


梱包作業、実はこれは非常に楽しい。僕は今の会社に入ったばかりの頃、梱包作業ばっかりしていた時期があった。自分のやりたいことは、自分で見つけろ、という社風だったので、当時、やりたいことが見つからなかった僕には、梱包作業ぐらいしかやることがなかった。

部署で発送する様々なコンピュータ機器を、適宜梱包し、社内便の集配時間を見計らって、確実に出荷する。一見、誰にでも出来そうな、そしてコンサルタントである僕の本来の仕事とは全く関係のない、単純労働だ。

こう言ってしまうと、日陰で非常に侘(わび)しい生活をしていたように思われるかもしれないが、そんなことはない。干されていたのかもしれなかったが、梱包の楽しさというのは、そんなことぐらいで薄れるものではないのだ。


少しだけ、梱包の世界について書こう。

梱包でもなんでもそうだが、ポイントは使う人の立場で考えること。(なんだかな、、)お客様の気持ちになることである。使うガムテープを吟味し(結 論は、引越し業者が使う業務用ナイロンテープが最良と分かった)、剥がし易くかつ確実に固定する。ガムテープの一方を折り返しておき、「ココから剥がす」 という場所を作っておくのも、好ましい工夫だ。

また、コンピュータに必ず必要なケーブル類は、エアキャップ(通称プチプチ)とガムテープを使って種類ごとに専用の小袋をつくり、そこにケーブルの絡みや捩(よじ)れを丁寧に解いてから、無駄なく詰める。

基本は、言うまでもなくしっかり包むことだが、こうした心遣が「差」を生み出すのだ。何の何に対する差かは知らないが、、。そして、最終的には、最 小限の梱包資材を使って、美しく仕上げることを目指す。大きさも、形も、重量も千差万別の梱包対象を相手にするのであるから、それは終わり無き追求の道 だ。

とはいっても、高い給料を払っている専門職に、えんえんとそんなことをされて、会社はさぞかし迷惑だっただろう。しかし、その生活は僕にとっては、 とても良かった。会社で荷物の発送をしている業者の人たちとも、仲良くなった。最後には、搬入口(荷物の送り出しと受け取りの専用エリア)のおっさんに 「xxさん、荷物届いてたよ、後で持ってくから」と名指しで言われるまでになった。


もはや、僕はそういうことはしていない。

いまでは、たまに自分の荷物を送るぐらいだ。しかし、あの時に梱包品の無い暇な時間に自分で勉強した技術は、その後の僕の仕事に大いに役にたった。梱包作業なんて、もともとそんなにあるわけではない。梱包をメインで唯一の仕事にしていた僕には、山ほど自由な時間があった。

たった、2年前の話だ。他の同期達は、客先で何 100人の聴衆を前にプレゼンをしたり、プロジェクトに入ってシステムの構築をしたりしていた。その時、僕は本社4階の隅っこにあるマシンルームで、四角 いコンピュータ達を、ごそごそとエアキャップにくるんだり、ギュウギュウと箱に押し込んだりして暮らしていた。中には、部署での役割を終えて、最後の梱包 をされ、どこかに送られていくものもあった。僕は、そいつの緑色しか色の出ないディスプレイを、磨いてやった。

そういう力の抜けた所から始められたのは、とても良かったと思っている。引っ張り出して、いろんなケーブルを外し、一つ一つ包んで、どこかに送り出 す。送られるものがなければ、マシンルームの本棚に、誰も読まないまま置き去りにされた、本を読んだ。そうやって、次に送られるマシンが来るのを、日がな 一日、待った。

梱包は楽しいのだ。

盗られましたか?

もはや秋。どういうことかといえば、お近くのローソンに「マツタケご飯弁当」が並んでいたから秋なのだ。

ここ最近、不規則な食生活ですっかり体重が増えてしまったので、なるべく外食は避けようとしていたのだが、この日はつい遅くなってしまった。仕方が ないので、会社の裏の(おなじみの)ローソンに、何か買いに行くことにした。暦どおり、日がどんどん短くなってきている。外に出ると、もう夕闇の時間は過 ぎ、夜の闇が降りていた。しかも、折からの雨、あたりはかなり暗い。

傘の雫を手早く振り落として傘立てに放り込み、店に入った。店内には女性の店員が1人と、少し年配のお客が1人。さて、何を買ったものか。夜遅く なってから行ったので、弁当コーナーの品揃えは、かなり寂しくなっている。秋鮭のフライ(こってりしたタルタル・ソース付)、牛丼大盛り弁当(まさに大 盛)と、げんなりするような品々。でも、1品だけ購買欲をそそるものがあった。それが例の「マツタケご飯弁当」。(正式には「松茸弁当)

まあ、内部のマツタケ自体は、「なめこですか?これは」というような感じだが、細かく刻んだ柴漬けや、あっさりした感じの煮物などが付いていて、なかなか好ましい印象を受ける。秋だし、これだな。

さて、この日は、シーズンで初めて肌寒さを感じた。そんなこともあって、いままで買ったことは無かったカップの味噌汁をつけてみることにする。日ご ろは、いちいち作るのがめんどくさそうなので(会社には給湯器があるものの、あまり美味しいお湯が出てきそうな代物ではないし)見向きもしないのだが、店 内をよくよく見てみればレジの横にはフリーに使えるポットがあるではないか。しかも、この店のカップ味噌汁のラインナップは、かなり充実している。少し 迷って、「今日は、蜆(シジミ)」ということにした。


で、レジを済ませ、脇で蜆の味噌汁にお湯を注いでいると、僕の脇をダッシュで走り去る奴がいた。恐ろしく嫌な予感がしたが、こちらは具の袋(蜆10 数個のパックと味噌パック)を取り出す段階から、熱湯を注ぐ最終段階に入っており、身動きがとれない。一瞬、蜆汁のカップを抱えて、凍りつく。

果たして、外に出てみると、あっさり傘(わりと高い折りたたみ)を盗まれていた。店には、僕のほかに客はあいつしかいなかったから、犯人は一目瞭 然。それにしても、日本だと思って気を許したのがアホだった。悔やんでも、どうにもならない。まあ、場所がコンビニなので替えの傘をすぐ買えるのは便利だ けどさ。なんというか、一度外に出て行ってからビニール傘を買いに戻るのには、奇妙に気まずいものがあった。

店員「盗られましたか?」
僕「ええ、、。」
店員「そぅ、、315円です。」
僕「はぁ、、。」

マツタケご飯とアツアツの蜆汁は、美味かったが、それにしても高い味噌汁だった。

気配

ぞっとする気配を感じた。目を上げると、黄ばんだ色の、無数の塊が蠢いていた。自分が何を見ているのか、すぐには理解できなかった。

鶏だ。物凄い数の鶏が、網籠の中に詰め込まれている。


バスを待っていた僕の眼前に、信号待ちで停まった真新しい白の4トントラック。その荷台には、異様な荷物が積み込まれていた。

よく見ると、小ぶりのスーツケースほどの大きさの金属製の籠1つ1つに、5、6羽の鶏が詰め込まれていた。そして、その籠が何段にもわたって積み重 ねられ、合わせて百以上の籠が荷台にぎっしり積まれている。籠の中にはぐったりした鶏がうずくまり、まだ気力の残っている他の鶏が、それを踏みつけて、体 の向きを変えようともがいている。それらは生き物と言うより、震える肉塊の集合だった。どの鶏も嘴(クチバシ)や羽が極端に貧相で、べったりと濡れた羽毛 は不自然に黄色かった。鶏は、生まれてから1度として日光の下に出ることなく、また籠の外で走り回ることも無く、生きてきたように見えた。籠から出して やったところで、自らの意思では、きっと何処にも行けないに違いない。

耳を澄ませると、「コッコッ」という低い鳴き声が、かすかに聞こえてきた。そこにいる鶏の数から考えれば、驚くほど静かだ。汗とも、涎ともつかない 体液が(鳥類は尿を液体では排泄しない)、籠から籠へと滴り、やがて荷台の水切り穴から、バシャバシャとアスファルトに滴り落ちている。ムッとした昼下が りの日差しの下で、病的な臭いがあたりに立ち込めた。

僕は半ば呆然と、蠢く鶏たちを見ていた。ふとトラックの前のほうを見ると、冷房の効いた助手席で、紺色の作業服を着た若い男が運転手と何事かを喋っている。男は、笑っていた。飼料に混ぜた抗生物質だろうか、薬品のような臭いがして、少し気分が悪くなった。

トラックは、信号が変わるとすぐに走り去った。後には、体液に濡れた跡だけが路面に残り、それも日差しに照らされて乾いていく。


あれが食肉用の鶏だったのか、あるいは鶏卵を採るためのものなのか判断しかねたが、それらは何かの単一な目的に対して高度に最適化されたものの結果 のように感じられた。例えば、最も効率的に食肉を生み出すためだけの鶏とか、そういった「モノ」だ。それが、真新しくて清潔なトラックに積まれて、輸送さ れていた。とても効率的な、そして異様な風景。

僕が見た光景の異様さの理由は、おそらく、その鶏達には生物としての尊厳が、何一つ残されていなかったことによる。生物を殺して食べることに、僕は 何ら批判的ではない。荷台一杯の鶏というのは、本来、網一杯の魚、あるいは牛舎の牛と何ら変わるものではない。しかし、生き物としての意味を一つも与えら れていない鶏達の姿は、僕には臓器と肉の塊としてしか見えず、そうしたものに対して僕は嫌悪感と悲しみを覚えずにはいられなかった。

しかし、生物としての尊厳なんてものを、いちいち考えるような世の中ではないのだろう。少なくとも、日常の中で、もっと効率よく、もっと早く、とい うことはあっても、その逆はない。鶏の尊厳なんて考えていたら、数百円という値段で鳥のから揚げを食べたりすることはできないはずだ。


きっと、誰も鶏が生き物であることなんて忘れてしまったのだろう。僕たちは、時として自分自身が生物であることでさえ、忘れてしまいそうになる。ぎ りぎりのコストで、肉や鶏卵が出来上がればいいのだ。であれば、僕の見た鶏たちは、たいへん正しく、「生産」され「輸送」されていた。大切なのは効 率、、。

しかし、僕が見た光景は、確かに異常で間違っているように思えた。憐れな生き物を、効率の籠の中に詰め込んだ様は、今の我々が追及している価値観の 生み出す一つの結果を、僕に感じさせた。そして、我々はこんなものを目指してきたのかと思うと、何とも言えない嫌な気分になった。

注:本稿は養鶏業者、食肉業者、及び関連する職務に従事される方々に対して、何ら批判する意図はありません。