今日の選択

ホテル前の路上、アスファルトに染み込んだ真っ赤な染みは、しばらく消えないだろう。事情を知っている人は、そこをよけて通る。それも、多分あと数週間のことだ。

新宿には、沢山のホテルがあり、僕もその中のいくつかを通り抜けて、会社に通っている。人が訪れ、いくらかの時間を過ごし、去る。中には、そこで生きることをやめる選択をする人も居る。日常のしがらみから少しだけ隔離された場所。ホテルという場所は、ある種の決断を下すのに、向いているように感じられるのかもしれない。


社会の中で生きている限り、自分の思い通りの選択をすることは、物凄く難しい。あまりにも多くの人が、僕たちの生活には関わり、あまりにも多くの出来事が、僕たちの生活を形作っている。自分では、それなりにいろいろとやっているつもりでも、実は平均的な人生。年齢と性別、職種と年収、学歴と住んでいる地域。そんなものを入力すれば、30年先までの出来事は統計的に予測可能だ。例えば、それを元に病気や事故の確率が計算され、保険料が決まる。

一月、5,600円。

自分の10年後が知りたければ、生命保険の外交員に聞けばいい。それなりに波乱万丈はあるだろう。それも、微細な「ゆらぎ」にすぎない。そう考えると、自分の意志なんて、どこにも無いのではないかと思う。


しかし、一つだけ確かなこと。僕たちは、今日も「生きる」という選択をし続けているからこそ、ここに居る。

この学校に入りたいと思っても、試験に落ちれば入れない。この商品が買いたいと思っても金がなければ買えない。この人と付き合いたいと思っても、相手にその気が無ければ付き合えない。

ところが、死ぬことはできる。もちろん、家庭や友人の存在が歯止めになることはあるだろう。それでも、自殺に試験はいらない。変な言い方だが、いつでも死ねる。しかし、生きつづけるという選択を、日々、自分自身でしている。自分の意志によって、この場所に居る。

そういう隣り合わせの感覚は、いつも感じるわけではない。

しかし、僕の足元に広がった痕跡が、その感覚を揺り動かした。

注1:本稿は、自殺を推奨するものではありません。
注2:プライバシーに配慮し、一部事実と異なる記述があます。
注3:作者の保険料は月額5,600円ではありません。

怒りの天丼

最近、朝はバス停まで森を通って(森があるんだ、悪いか)行くことにしている。昔、海外のマッサージで(怪しいのではない)「あなたは首がこってい る。コンピュータに向かいっぱなしは体に悪い。ひまな時間は緑を見るように」と言われた。オフィスの観葉植物を凝視するわけにもいかないので、森を歩くこ とにしたのだ。

少し湿った落ち葉の上を、てくてく歩く。なんとなく、景色がギラギラしている。冬だから、森の落葉樹はみな葉を落としている。澄んだ空気の中で、枝と枝が無数に重なり合い、遥か遠くまで続く。それにしても、なんか景色が変だ、目が悪くなったのだろうか。


昼、例の小料理屋に昼飯を食べに行く。

今日のオヤジはめちゃくちゃ機嫌が悪い。ランチ・メニューは天丼 or 銀睦の焼き物 or 鮭の西京漬け、(烏賊の湯引き山葵醤油、揚げの味噌汁、白菜と野沢菜の漬物、煮物付)だったのだが、メニューに揚げ物がある日は、たいていオヤジの機嫌が 悪い。注文が揚げ物に集中すると、オヤジ独りでは手が回らなくなってしまうのだ。しかも、天丼は海老・茄子・ピーマンなどを何種類か揚げなくてはならず、 ひときは面倒くさい。それだったら、揚げ物を出さなければいいのにと思うが、そういうものでもないようだ。

カウンターの向こうの雰囲気は、近年に無く最悪。しかし、大半のお客は常連で、オヤジの怒鳴り声には慣れたもの。しかも、実は、ここの店 はオヤジが怒っている時が一番旨い。機嫌が悪ければ悪いほど、オヤジの仕事は冴え渡るのだ。だから、今日はひときは美味しかった。怒りの天丼。


オフィスに戻って、ホロホロとメールを書いていると、同僚に「顔が赤いよ」と言われた。んー、つまり熱が出ているわけだ。どうりで景色がおかしかった訳だ。焦点があってないのだ。仕事はつづけたものの、とてもいまいち。

僕は許容動作温度の幅が狭いので、熱があるととたんに言動そのものから変化してしまう。(第三者の証言によれば、リアクションが全然変わるので直ぐに分かるらしい)こんなんでは、ミーティングに出たりしても変なことを言うだけなので、さっさと帰る。


家に帰って寝た。

暇なので、静かに音楽をかけていると、まだ日も落ちたばかりだというのに暴走族が(いるのだ、悪いか)、うるさい。怒り狂っていると、体が回復してきた。怒るのも大切みたいだ。

人間ほど怖いものはない

人間ほど怖いものはない。

そういう風に教えられて育った。人間がいかに汚いことをし、いかに裏切るかを見て育った。

子供の僕にとって、決してよかったとは思えない。自分に子供が出来たとしたら、そういうものは見せたくないと思う。それはそれとして、僕がそういうものを見て育った事実は、消すことができない。

羊ページを見ている読者の方々は、このページの語り口が、どこか冷め切っていて、そして、人を見切ったようなところがあることに、気がついていると思う。それは、僕のそうした記憶が、僕の足を引っ張っている結果なのかもしれない。

それでも、不思議なことに、人を感動させるようなものが、たまには書けることがある。自分自身が信じていないような、希望とか、暖かさとか、そういうものが文章のカタチになって、人を喜ばせることが出来るのが不思議だ。

本当は信じている。だから書きつづける、たぶん。