煎餅を囓りながら、久しぶりにフランス映画を見る。
視線のエロス。
どちらかといえば、見ていて疲れる映画。フランス語、字幕を丹念に追わないと、内容が分からない。
「記憶は、情熱を留めておくことができない」その言葉だけが、心に残る。
だからこそ、耐えられることもある。そうじゃないだろうか。
注:べつにエロエロな映画ではない。邦題がめちゃくちゃなだけだ。
写真と紀行文
煎餅を囓りながら、久しぶりにフランス映画を見る。
視線のエロス。
どちらかといえば、見ていて疲れる映画。フランス語、字幕を丹念に追わないと、内容が分からない。
「記憶は、情熱を留めておくことができない」その言葉だけが、心に残る。
だからこそ、耐えられることもある。そうじゃないだろうか。
注:べつにエロエロな映画ではない。邦題がめちゃくちゃなだけだ。
パラパラと雨が降っている。
何年も使ってきた、パソコンの仮名漢字変換の辞書を整理する。遙か昔に忘れてしまった友達の名前が、幾つも登録されていた。コンピュータの記憶は、消えもせず、薄れもしない。
悲しい目をしている。と言われることがある。
負け犬の目、とか、怯えた目とか、そういうものならば、なんとなく分かる。「悲しい目」って?
顔を洗って、鏡を覗き込む。それは、いつもの自分。
InterFMで、ピーター・バラカンがしゃべっている。英語で。
うまいじゃない、英語。
雨が降っている。
羊ページ管理者は、他人の日本語の使いかたに関して、寛容であろうと思っている。僕にとって「ら」抜き言葉は全然不愉快じゃないし、例え街中で日本語のラップが流れていても、聞こえないふりをするぐらいの分別はある。でも、一つだけ許せない日本語がある。最近よく見かける、こんな感じのやつだ。
上に挙げた三つの例文を見て、違和感を感じないだろうか。この「xxが売っていた」という表現は、なんなのだ。
実は、この「が売っていた」という表現は、現在の日本語文法を揺るがすくらいの、インパクトを秘めている。従来の流行り言葉、というのは、なにかの 形容詞を言い換えたり(例:「凄く」->「ちょー」)、名詞を恥ずかしく短縮したり(例:「スーパーコンピュータ」->「スパコン」)、未知 の感覚を表現したり(例:「まったりとした」)、言ってみれば単なる「置換」に過ぎなかった。ところが、「が売っていた」という表現は、文法レベルで日本 語に変更を加えている。
例えば、「携帯が売っていた」という文脈では、普通に考えれば「が」は能動態として使われる。つまり、「携帯電話が自分で何かを売っていた」という 意味になる。しかし、これでは意味が通じない。「携帯電話が何者かの手によって売られていた」というのが、本当の意味だからだ。この場合、「が」は明らか に受動態として使われている。だから、聞いていて物凄く変なのだ。そこには、明らかな言語的センスの欠落が感じられる。
どういう経緯でこういう表現が出てきたのか、僕にはよく分からない。(どっかの方言が転化したものなのかもしれない)この表現の姉妹編として「テレ ビでxxの番組がやってた」などというものもあり、年齢や学歴に関係なく、様々な人がこの「xxが」表現を使っている。実際、かなり広く浸透した表現のよ うである。あるいは、日本語文法の活用変化が、よりおおざっぱなものに変化してゆく前兆なのかもしれない。もっと大きな目で見れば、そんな風に思えてきた りもする。
いずれにせよ、個人的にはこんな変な日本語はやめて欲しいのだが、、。
注1:もちろん、言葉は皆が使ってなんぼ、なんだけど。
注2:「?が売っていた」という表現は、「ら」抜きを進化させた、ある種の「れらる」抜き表現ではないか、というご指摘をいただいた。つまり、「携帯が売られていた」→「携帯が売(られ)ていた」→「携帯が売っていた」なるほど。そうかもしれない。