気配

ぞっとする気配を感じた。目を上げると、黄ばんだ色の、無数の塊が蠢いていた。自分が何を見ているのか、すぐには理解できなかった。

鶏だ。物凄い数の鶏が、網籠の中に詰め込まれている。


バスを待っていた僕の眼前に、信号待ちで停まった真新しい白の4トントラック。その荷台には、異様な荷物が積み込まれていた。

よく見ると、小ぶりのスーツケースほどの大きさの金属製の籠1つ1つに、5、6羽の鶏が詰め込まれていた。そして、その籠が何段にもわたって積み重 ねられ、合わせて百以上の籠が荷台にぎっしり積まれている。籠の中にはぐったりした鶏がうずくまり、まだ気力の残っている他の鶏が、それを踏みつけて、体 の向きを変えようともがいている。それらは生き物と言うより、震える肉塊の集合だった。どの鶏も嘴(クチバシ)や羽が極端に貧相で、べったりと濡れた羽毛 は不自然に黄色かった。鶏は、生まれてから1度として日光の下に出ることなく、また籠の外で走り回ることも無く、生きてきたように見えた。籠から出して やったところで、自らの意思では、きっと何処にも行けないに違いない。

耳を澄ませると、「コッコッ」という低い鳴き声が、かすかに聞こえてきた。そこにいる鶏の数から考えれば、驚くほど静かだ。汗とも、涎ともつかない 体液が(鳥類は尿を液体では排泄しない)、籠から籠へと滴り、やがて荷台の水切り穴から、バシャバシャとアスファルトに滴り落ちている。ムッとした昼下が りの日差しの下で、病的な臭いがあたりに立ち込めた。

僕は半ば呆然と、蠢く鶏たちを見ていた。ふとトラックの前のほうを見ると、冷房の効いた助手席で、紺色の作業服を着た若い男が運転手と何事かを喋っている。男は、笑っていた。飼料に混ぜた抗生物質だろうか、薬品のような臭いがして、少し気分が悪くなった。

トラックは、信号が変わるとすぐに走り去った。後には、体液に濡れた跡だけが路面に残り、それも日差しに照らされて乾いていく。


あれが食肉用の鶏だったのか、あるいは鶏卵を採るためのものなのか判断しかねたが、それらは何かの単一な目的に対して高度に最適化されたものの結果 のように感じられた。例えば、最も効率的に食肉を生み出すためだけの鶏とか、そういった「モノ」だ。それが、真新しくて清潔なトラックに積まれて、輸送さ れていた。とても効率的な、そして異様な風景。

僕が見た光景の異様さの理由は、おそらく、その鶏達には生物としての尊厳が、何一つ残されていなかったことによる。生物を殺して食べることに、僕は 何ら批判的ではない。荷台一杯の鶏というのは、本来、網一杯の魚、あるいは牛舎の牛と何ら変わるものではない。しかし、生き物としての意味を一つも与えら れていない鶏達の姿は、僕には臓器と肉の塊としてしか見えず、そうしたものに対して僕は嫌悪感と悲しみを覚えずにはいられなかった。

しかし、生物としての尊厳なんてものを、いちいち考えるような世の中ではないのだろう。少なくとも、日常の中で、もっと効率よく、もっと早く、とい うことはあっても、その逆はない。鶏の尊厳なんて考えていたら、数百円という値段で鳥のから揚げを食べたりすることはできないはずだ。


きっと、誰も鶏が生き物であることなんて忘れてしまったのだろう。僕たちは、時として自分自身が生物であることでさえ、忘れてしまいそうになる。ぎ りぎりのコストで、肉や鶏卵が出来上がればいいのだ。であれば、僕の見た鶏たちは、たいへん正しく、「生産」され「輸送」されていた。大切なのは効 率、、。

しかし、僕が見た光景は、確かに異常で間違っているように思えた。憐れな生き物を、効率の籠の中に詰め込んだ様は、今の我々が追及している価値観の 生み出す一つの結果を、僕に感じさせた。そして、我々はこんなものを目指してきたのかと思うと、何とも言えない嫌な気分になった。

注:本稿は養鶏業者、食肉業者、及び関連する職務に従事される方々に対して、何ら批判する意図はありません。

台北市内

Photo: 1995. taiwan, CONTAX T2 Carl Zeiss T* Sonnar 2.8/38

Photo: 1995. taiwan, CONTAX T2 Carl Zeiss T* Sonnar 2.8/38

台北市内の裏路地。

市内は、いかにもアジアの下町を感じさせる雑居ビルが建つ。下は商店で、上の階に人が住んでいるといった感じ。台湾は日本と同じ島国で、山地も多い ため、必然的に都市の住宅事情は過密になる。台北市内の道路事情も東京と似たようなもので、朝夕の通勤ラッシュに巻き込まれると、全く車が動かなくなって しまう。

看板は漢字なので(英語はない)、なんとなく意味は分かる。見た目になんとなくゴミゴミしているのは、日本と同じで電線が地上に露出しているせいだろうか。

台湾というと、Acerなどコンピュータのコンポーネントを生産する企業がひしめく、アジアのハイテク下請け工場地帯のようなイメージがあるが、街 を歩いている限りでは、ハイテク製品は見かけない。せいぜい、半分閉まったようなスポーツ用品店に、ウィルソンのテニス・ラケット(カーボンファイバで作 られるテニス・ラケットは一種のハイテクだ、そして、テニス・ラケットは大半が台湾製だ)を見かけたぐらいだ。大半が、海外輸出に回されているのだろう。


湿った空気や、どことなく緊張感のない風情は、日本と比べて、あまり違和感を感じない。治安の目安になる警官の数も、あまり多くなく、市街地の治安 は良いようだ。もっとも、つい最近まで、ホテルに盗聴器などがあっても当たり前、という国だったそうだから別の意味で怖いかもしれない。

韓国の旅をふり返る

韓国の旅を振り返ってみる。

韓国は何だったか、と言えば、やはり食べ物だ。食事のよさでは、アジア圏では筆頭。(もちろん、僕は日本食が一番美味しいと思っているが)そして、韓国の食べ物と言えば、牛肉とキムチだ。

実は、韓国に行く前に、昔1ヶ月間韓国でソフトの開発をやったことのある先輩から「韓国は何でもキムチだ」と言われていて、「んなアホな」と思わないこともなかったのだが、行ってみたら本当にキムチだった。


まずは焼肉から考えてみよう。(考えるほどのことでもないが)韓国と言えば焼肉というイメージだが、これは確かにそうだ。韓国人が毎日焼肉を食っているわけではもちろんないが、焼き肉は旨い。というよりも、牛肉が(安いやつも、高いやつも)根本的に美味しいのである。

一口に牛肉といっても、国によって味の方向性は違う。例えば、日本の牛肉はわりと脂っこくて、半生ぐらいで食べるのが良い。悪名高いアメリカの牛肉は、どう調理しても味も脂も感じられないし、レアで食べてもどのみち固い。それに比べて、フランスの牛肉は、とにかく固いが、いちおう脂はある。ドイツの 牛肉はただの炭で、ああ、ソーセージにすればよかった、と後悔しつづけるような代物だ。別に、世界の牛肉を食べ尽くしている訳ではぜんぜんないが、少なくとも、和牛よりも美味しい牛肉なんて、僕は食べたことがなかった。

しかし、韓国の牛肉は、もしかしたら和牛よりも美味しいかもしれない。脂はあまりないし、食感が柔らかいわけではない。しかし、プリプリした歯ごたえと、肉の味の濃さが確かにある。そして、焼きすぎても(韓国の肉料理は、往々にして焼きすぎだ)、冷めても、そのプリプリ感は失われず、全然美味しいの だ。肉自体の脂が少ないから、焼肉にしても、日本で食べるよりも沢山食べられる(食べてしまう、というべきか)少なくとも、僕はあんまりしつこいのは嫌いだから、個人的には韓国牛の方が好きかもしれない。


で、次にキムチだが、これは日本の御新香、、ではなさそうだ。それは、おかずであり、味の傾向の基本であり、そして御新香の役割もある。韓国で何か食べると、小ぶりな平皿にキムチを入れたものが数種類は付いてくる。

(余談になるが、地球上でなりたくない職業の一つは、間違いなく韓国の皿洗いだ。ここの人たちは、驚くほど皿を景気良く使う。盛り合わせるぐらいなら、皿を分ける、というのが基本らしい。これは、別に高級な店に限ったことではない。大韓航空の機内食だって、街の500円ぐらいの定食屋だって同じだ。 まあ、キムチをごちゃまぜに出したりしたらまずいので、必然的に皿が多くなるのだろう。)

よく韓国のキムチは種類が豊富だと言うが、これに関しては僕にはよく分からない。なぜなら、韓国料理の味付けの基本は唐辛子。唐辛子で真っ赤に染まった野菜や肉は、いったいどこまでがキムチなのか、その境界が分からない。だから、日本人からみると、みんながみんな唐辛子味、つまりキムチ味なのだ。 だから、朝も昼も、夜も、キムチを食っているような気になってしまう。あぁー、もうキムチはいらない。しばらくするとそんな気になったりもする。

僕は食べなかったが、南大門の市場のあたりを歩いていると、昼時には店先で出前の定食を食べている人がけっこう多かった。出前は、長方形の金属製の お盆に料理を載せ、それをいくつか重ねた状態で、若い出前係りが手で運ぶ。ごちゃ混ぜの露天と、それに群がる人々、その中を器用にすり抜けていく出前持ち、、。なんともアジアの混沌といった感じの景色が繰り広げられている。少し失礼とは思ったが、食べている人のお盆の中をのぞいてみると、どんぶりのご飯に、メインのおかず(野菜炒めとか、レバニラ炒めのようなもの、あるいはカレイのから揚げ等)、そして、そこに4皿ほどのキムチがついている。これって けっこう美味しそう。

ところで、食事の度に景気良く出てくるキムチというのは、全部食べきってしまうということはないのだが(地元の人でもそう)、これって残りは捨ててしまうのだろうか?あるいは、使いまわされるのだろうか。焼肉店などで出てくる食べきれないほどのキムチの残りは、いったいどこにいってしまうのだろうか。さすがに、ごみ袋をあさったりすることは出来なかったので、真相は謎だが、あの調子で考えると、莫大な量の食べ残しキムチが捨てられているはずだ。僕の勘ではそのうちの幾らかは、鍋なんかに使われるんじゃないかと思うのだが、、。