Photo: “Mausoleum of Japanese Zero pilot.” 2016. Tainan, Taiwan, Richo GR.
タクシーの運転手に行き先を見せると、特に説明も無く理解された。それなりの頻度で、訪ねる人が居るのだろう。冷房の効いたトヨタ車で、日差しの強い台南の街を20分ほど走る。台湾にはトヨタが多い。
コンビニのある十字路に、鎮安堂飛虎将軍廟は有った。イメージとしては、なんとなく人里離れた廟をイメージしていたのだが、その由来を考えれば、市街地のど真ん中にあって不思議では無い。
「歓迎 日本国の皆々様ようこそ参詣にいらっしゃいました」と、日本語で書かれた横断幕が、僕たちを迎える。
この廟の由来については、wikiなどに書いてある。太平洋戦争末期にこの地で戦死した、旧帝国海軍の零戦パイロット杉浦茂峰兵曹長を祭る廟だ。日清戦争後に日本の統治が始まった台湾の日本に対する感情は、やはりアジアの他のどの国ともまた違っている。とはいえ、帝国軍人が祭られる廟が、国外にあることに驚いたし、一度訪れてみようとも思った。
台湾でのお参りの手順は、いささか複雑だ。火を灯した長い線香を持って、決められた順路を反時計回りで回っていく。要所要所で線香を挿すが、それは必ず3つずつというのを守る。そうして、神像の前まで来て、お供えの煙草に火を灯す。
飛虎将軍は煙草が好きだった。だから、亡くなって70年を超えたこの日にもなお、台湾の人々は煙草を供えている。もちろん、煙草も3本だ。羽田空港できっと若葉かなにかが手に入るだろうと思ったのだが、もうそんな銘柄は売られていなかった。メビウスではあんまりだから、せめて昭和の香りがするセブンスターを買い求めてきた。
「では歌いましょう」
そう促されて渡されたパンフレットには、君が代の歌詞が書かれている。CDプレーヤーから流れる曲に合わせて、君が代を歌った。最後にこの歌を歌った時の記憶は既に無く(キリスト教系の学校だったから、君が代はほぼ御法度なのだ)、自分がこの歌を台湾の人達と一緒に歌っていることに、いささかの驚きを感じた。
「では続いて」
“海ゆかば”を僕はだいたい歌える。軍人だった祖父の家には、鶴田浩二のレコードに混じって、ソノシートの軍歌が何枚か置かれていた。音が出る安っぽいプレーヤーをいじるのは面白く、軍歌の意味はあまり分からずに、夏休みに遊びに行った時に聴いていた。その記憶が、あっという間に蘇る。
“海ゆかば、水漬く屍・・”
海外で、大戦中の軍歌を、公共の場で歌うのは、まったく思ってもいない事で、日本国内ではほぼタブーであろうこうした事が、自然に続けられていることに、むしろ、ある種の歴史の継続性のような、言葉を選びづらいが、より健全な何かを感じた。歴史は続いているし、無かったこと、見ないふりは、出来ないのだ。
ちょうどお昼時。廟の人達が昼食に出かけるタイミングで外に出る。暑い日で、向かいのファミマで涼むことにする。アジアで大人気のぐでたまグッズを冷やかし、イートインコーナーからガラス越しに見るともなく廟を見ている。地元の人が歩いてきて、廟の前で立ち止まり、一礼してまた歩いて行く。
「私たちは、地元の学校で、子供たちこの歴史をずっと教えているんです」
それは、きっと深く根付いているのだろう。ジェット機で成層圏を飛んでもなお、東京から4時間以上かかるこの地が、かつて日本であり、そこに生きてきた人達が居て、歴史はその続きで流れているのだ。亡くなったときのパイロットの年齢は二十歳。日本の降伏まで、あと1年も無かった。