雑誌を買わない

雑誌を、最近ほとんど買わない。月刊誌も週刊誌も、定期的に買っているものは1冊もない。ここで言う雑誌っていうのは、駅の売店で買うような軽めのやつではなくて(もともと、そっちの雑誌を買う習慣は僕には無い。)、書店で買うようなやつのことだ。

何でだろう。

僕は何かに凝ると、その道の専門誌なんかを何年も買ったりするのだけれど、(スキーとか、車とか、Mac とか)最近は別に凝っているものが無いからかもしれない。

何か、物事に興味が無くなっているのだとしたら、それはまずいことだと思う。時間が限られていると、だんだん無駄なことに興味を持ったりしなくな る。自分の興味を注ぐ対象を、絞り始める。新しいものに、なかなか飛びつかなくなる。それはそれで、上手い時間の使い方ではある。

でも、そういうのってやっぱりよくない。


もう一つ、雑誌を買わない理由は、雑誌そのものの質の低さにうんざりしているせいもある。

電車に乗ったり、新聞の広告を見ると、面白そうな見出しがいっぱいある。けれど、買ってみるとほとんど期待はずれだ。ちゃんと取材なんかしないできっと電話で済ませたに違いないと思うような記事ばっかりだ。

だいたい、1冊 800円程度の雑誌に、それ程の大きな期待をすることが間違っているのだろう。中身は広告と、センスのない焼き直しばかり。もっと、真剣につくれよ。


「Stereo Sound」という雑誌がある。季刊誌だ。

この雑誌、興味のない人にとっては、まったく下らない専門誌だ。重さは、2kg 位あるんじゃないかという分厚い、(しかも上質の製本の)本の中には、1台数百万円という高価なステレオ機材の紹介が、えんえんと掲載されている。

CD 評なんかもあるのだが、録音の状態がどうだこうだというような、非常に「偏った」視点で、普通の人には全然役にたたない。

雑誌っていうのは、特に月刊誌っていうのは、こうじゃなくちゃいけないと思う。最初買ったときには、何が何だか分からなくて、中身を解読することさえできない。で、買い続けるうちに、その雑誌のつくっている世界みたいなものに馴染んでいけるような、そういう感じだ。

雑誌のタイトルは凄く増えた。世の中に存在するあらゆることについての、雑誌が、発行されている。同じテーマで何誌もあるから、選択の余地もある。

でも、特集のタイトルで、ころころと買う雑誌を変えるのは少し寂しい。

時間だけが、解決できることがある

今日は8月15日。日本の戦後の歴史について専攻していた僕にとっては、少しだけ目に留まる日付だ。

日本国の「戦後」は、1945年の今日から始まった。そして53年。

僕が子供の頃は、まだこの夏という季節には、日本の敗北の日に思いを巡らせる時期があった。今年、もはやそんな空気はほとんどない。

それを批判しているのでは、決してない。戦争がやっと歴史になりつつある。そういう気がしているのだ。

アメリカの影を感じながら、自分たちのアイデンティティーの危機にさらされながら、日本人はようやくここまでやってきた。日本にも個人主義とか、合理的なルールとかがようやく通用するようになってきて、やっと新しい時代を迎えようとしている気がする。

古いものは、あるものは単純に死んでしまい、あるものは持ちこたえられずに崩れていき、あるものはしたたかに生き延びていく。どちらにしても、いろんなことが変わりつつある。


大学時代にきいた、韓国からの留学生の話が今でも心に残っている。
「時間だけが、解決できることがある」

いろんな傷を残して終わった戦争は、半世紀の時間を経て、ようやく忘れられようとしているのだろう。

夏休み

ろくに夏休みもなかったため(結局有給を2日しか使っていない)、かなり疲れがきています。

アメリカでの仕事は楽しかったので、充実感はあるのですが、やはり体力に限界はあるようです。

ただ、暑さが一段落しているようで助かります。世の中はそろそろ夏休みのシーズンのようですね。今週末は、暇を持て余した大学時代の友人から、助けを求める電話が入ったりしています。

心ははやくも取り直しの夏休みです。どこに行こうかな、、何をしようかな、、。それよりも、問題はいつとるかだけど、、。


あ、そうそう、内定おめでとう、Random Production 管理者さん。ネットワークエンジニアですか。僕、ネットワーク苦手なので頑張ってください、聞くから。