暖炉

炎が、揺れていた。大ぶりの薪が、タイル張りの暖炉の中に積まれている。炎が、柔らかい光を撒くと、煙突に向かう薄い煙が、チラチラと照らしだされた。パチリ、かすかはぜている。

周りはみな、本や雑誌に目を落としている。僕だけが、じっと炎を見つめていた。窓の外では、雪が勢いを弱めることなく、降りつづいている。

その日の泊り客は、僕たち4人だけ。飛び込みの宿泊を快く承知してくれた宿の人が用意した夕食。鹿の刺身、茸を山ほど入れた鱒のホイル焼き、セロリ を刻み込んだスープ、野菜を山と添えたステーキ、そして手作りの漬物。スキー場の宿で、これほど心づくしの料理に出会うのは珍しい。

夕食後、せっかく用意された暖炉に向かわないのは、あまりに無粋というもの。少し怪しい足取りで、暖炉の周りに置かれたソファーに身をうずめる。普段より量の多い夕食と、ビールのアルコールが眠気をさそう。

炎を見るのが、こんなに面白いものだったかと改めて思い直す。木から生まれた炎は、一時として同じ形を保つことはなく、燃えつづける。なんでもない 木。そこから、突然炎が立ちのぼっている。すぐ後ろにそびえる雪山、降り続く雪の中に冷え冷えと立つ樹木。その中に、こんなに暖かい光が隠されていること を、どうして想像できるだろう。

薪が炎に変わってゆく。そんな不思議な光景。

一番太い薪が燃え尽きてしまうまで、ずっと見ていた。

「力」の偏在

シンニード・オコナーという歌手は、一時期、メディアから抹殺されていた。理由は、ローマ法王の写真を、あるテレビの生放送中に破いたから。キリス ト教本来の教義に従えば、法王の写真を破こうと自分の兄弟の写真を破こうと、意味は同じだと思うが、そこはそれ全然違うわけだ。

あるいは、そのローマ法王が、サイクロンでぼろぼろになったインドを訪れている。ロングストレッチの完全防弾仕様メルセデスから降り立つ法王。着 飾った人々が法王を迎える。柔らかい芝生の庭園、カトリック式の御香の煙、一面に撒かれた色とりどりの花びらの匂い。その塀の外。泥にまみれ、ゴミみたい になった被災者が映し出される、市中の惨状とのコントラスト。

非難する気は全くない。そういうものに対して、矛盾を感じたこともあった。が、今は感じなくなった。そこにあるのは矛盾ではなくて、世界そのものであることを知ったからだ。

そうした事件、あるいは景色が意味するのは「力」の偏在である。力の偏在という言い方自体、ある意味矛盾しているかもしれない。偏っていなければ、それは力とは言えない。そんな気もする。

今日の選択

ホテル前の路上、アスファルトに染み込んだ真っ赤な染みは、しばらく消えないだろう。事情を知っている人は、そこをよけて通る。それも、多分あと数週間のことだ。

新宿には、沢山のホテルがあり、僕もその中のいくつかを通り抜けて、会社に通っている。人が訪れ、いくらかの時間を過ごし、去る。中には、そこで生きることをやめる選択をする人も居る。日常のしがらみから少しだけ隔離された場所。ホテルという場所は、ある種の決断を下すのに、向いているように感じられるのかもしれない。


社会の中で生きている限り、自分の思い通りの選択をすることは、物凄く難しい。あまりにも多くの人が、僕たちの生活には関わり、あまりにも多くの出来事が、僕たちの生活を形作っている。自分では、それなりにいろいろとやっているつもりでも、実は平均的な人生。年齢と性別、職種と年収、学歴と住んでいる地域。そんなものを入力すれば、30年先までの出来事は統計的に予測可能だ。例えば、それを元に病気や事故の確率が計算され、保険料が決まる。

一月、5,600円。

自分の10年後が知りたければ、生命保険の外交員に聞けばいい。それなりに波乱万丈はあるだろう。それも、微細な「ゆらぎ」にすぎない。そう考えると、自分の意志なんて、どこにも無いのではないかと思う。


しかし、一つだけ確かなこと。僕たちは、今日も「生きる」という選択をし続けているからこそ、ここに居る。

この学校に入りたいと思っても、試験に落ちれば入れない。この商品が買いたいと思っても金がなければ買えない。この人と付き合いたいと思っても、相手にその気が無ければ付き合えない。

ところが、死ぬことはできる。もちろん、家庭や友人の存在が歯止めになることはあるだろう。それでも、自殺に試験はいらない。変な言い方だが、いつでも死ねる。しかし、生きつづけるという選択を、日々、自分自身でしている。自分の意志によって、この場所に居る。

そういう隣り合わせの感覚は、いつも感じるわけではない。

しかし、僕の足元に広がった痕跡が、その感覚を揺り動かした。

注1:本稿は、自殺を推奨するものではありません。
注2:プライバシーに配慮し、一部事実と異なる記述があます。
注3:作者の保険料は月額5,600円ではありません。