行列の出来る、まずいラーメン屋

行列の出来る、まずいラーメン屋がある。

昼時、(暑くもないのに)腕まくりをしたオヤジどもが行列をつくるラーメン屋。昼間からラーメンを食べる、という感覚が僕には無いから、(特に、東 京ラーメンは昼間に食うものではないと思う)なんとなく敬遠していた。しかし、あまりにも常に行列ができているので、ある日、ついに暖簾をくぐった。もし かして、ウマイのかも?

店内は、平均的ラーメン屋の風情。汚すぎでもなく、キレイすぎでもない。(キレイなラーメン屋というのも、少しイヤだ)しかし、店内に貼り出された メニューは、やたらに種類が多い。メニューが豊富なラーメン屋が、うまかったためしはない。水の出てきたコップは、末期的に汚い。店内は、オヤジどもで いっぱいで、それも、なんか仕事の一線からは外されました、みたいな雰囲気の人が多い。どう考えても、やばい感じがしたので、普通のラーメンを頼んだ。

しばらくして、腹立たしいほど、なんの美味さもないラーメンが出てきた。正確に言うと、不味い、のではない。美味くないのだ。まずい、ならば面白い からまだいい。不味いものは思い出になる。美味くないものは、なんの思い出にもならず、やるせない感じだけが残る。うどんと山菜御飯のセットにサラダを付 けられたときのような、あるいは、山奥の民宿でマグロの刺身を出されたような、そんな嫌さ加減と言えばわかって頂けるだろうか。

出てくる料理は、最初味がわからないくらい熱い。親の敵のように熱い。(僕は、猫舌、猫手なので熱いものは基本的に苦手だ)舌は化学調味料でしび れ、醤油の質は限りなく低く、麺からはウンザリするほどのかんすいの臭い。それを、オヤジどもがフーフーいって食べている、フーフー。しかも、皆、満足げ に麺をすすっているのだ、フーフー。一緒にそのラーメン屋に行った同僚達は、うんざりした顔で、顔を近づけるだけで息苦しくなるほどアツアツのタンメンと 格闘している、フーフー。僕の味覚が問題というわけでは、ないらしい、フーフー。


僕は、その美味くない熱湯ラーメン自体に怒りは感じなかった。店主は、手を抜いて作っているわけではなく、ラーメンはこれでいいのだと、確信してつくっているようだった。むしろ、そんなラーメンを嬉々として喰っている見知らぬオヤジどもに、あきれ、恐怖した。

別に、美味いものを喰わなければいかん、などというつもりは全く無い。なんというか、美意識というか、センスというか、そういうものの完全な欠落が 悲しいのだ。だって、このラーメン屋の近くには、いろいろと美味しい店がある。手ごろな値段で、オヤジ好みの和食を出す店だってある。なのに、なぜここで 喰う。行列する。こういう人たちが、OLの手によって、ぞうきん汁入りのお茶とか飲まされてるんじゃないだろうか。言っておくが、このラーメン屋、値段は 決して安くはないのだ。こんな人たちに、食事を作っている奥さん達は(このオヤジどもは、どうみても、自分で作りそうにはない)、さぞかし、やりがいがな いに違いない。

「なんか食わしときゃいいのよ、どうせ味なんて分かりゃしないんだから」

注:作者は、「ホンモノのお茶くみ」というのを見たことがないので、想像。

臨界の日

その日、僕はいつもと違う窓から、空を見上げていた。開け放たれた窓から、ひんやりした初冬の風が吹きこんでくる。見慣れぬ部屋、かぎなれない空気。どこかで見たことのあるような、ベランダの向こうの街並み。部屋を吹き抜ける、光を含んだ風。

臨界事故を起こした核燃料工場からは、その日も、放射性物質が流れつづけていた。50年前、二十代の科学者達が、無邪気につくり出した核の炎。そいつは、初めて人を焼いたこの島の上で、コンクリートの容器に閉じ込められ、人々の生活をささえていた。そいつが、牙をむいた。

空は高く、雲が薄く流れていた。ここは、事故の現場に少しだけ近い、、。そう思うと、一瞬鼓動がはやくなった。

「ちょっと出かけてくるわ」
「ああ」

そう答えて、僕は窓のそばを離れる。読みかけの小説をもって、部屋に不釣合いなくらいおおきなソファーに腰をおろした。何度も読み返した小説。文字に目を落としながら、息を吸い込んだ。その日は、肌に触れる大気が、気持ちよかった。

光が力を失って、部屋の中は薄暗くなり、小説の文字はくろい染みのようになり、やがてそれも分からなくなった。彼女が帰って来たときも、僕は部屋中 の窓を開けっ放しにしていた。夕闇は、すでに濃くなり、空気はカラカラに冷たくなっていた。その部屋で、僕はぼんやりと座っていた。

「バカ」

僕は、鼻かぜをひいた。

注:この作品はフィクションです。

志賀直哉を読んでいる

最近、志賀直哉を読んでいる。

普通、日本の学校に行っていると、中学か高校あたりの国語の授業で「城の崎にて」という短編小説を読むと思うが、志賀直哉はその作者だ。本の内容と その感想は、そのうち(近くはない将来という意味だと思ってください)[小説鑑賞]の方に書くと思うので、志賀の小説全般を通して感じたことを少しだけ書 いてみる。

志賀直哉の文章ってどんなの?と考えると、難しい。あえて言うと、これこれではない、ということが多い。つまり、ドラマティックではないし、文学の 薫り高いわけでもない、冷めているわけでもない、退廃的ではない、情熱的でもない。むしろ、いろんな印象を取り去っていくと、志賀の文章が見えてくる。

志賀直哉の作品は、私小説と呼ばれるものだそうだ。それって、あえて言うなら、Web日記みたいな感じ?そうなのだ。物凄く大胆に言ってしまえば、 Web無き時代のWeb日記。読まれることを前提にした、私的な文章。そんな、志賀直哉の小説を読んでいて僕が感じたのは、ある種の安堵だった。

僕自身、4年以上にわたってこの[今日の一言]を書きつづけてきて、自分の書きたいものとか、書きたい文体とかがほんの少し分かってきた気がする。 それは、今ある普通の小説のような物よりも、むしろ志賀が書いていたような、これこれではない、という感じのものだ。志賀の文章を追いながら、僕は何度も こう思った。

これが文学?これでいいの?そうか、こういうのを書いて良いのか!自分でも、こういうのを書いていいのか!

もちろん、志賀みたいな文章はいくらでも書けるとか、そういうことが言いたいのではない。ただ、自分の心を、こんな感じで文章にすることが、たぶん間違ってはいないのだ、ということに気がついた。それが、僕の感じた安堵の理由だった。