ネット&コンピュータの記事一覧(全 168件)

web の Flash 化に対する異議

web サイトを Flash で作るっていうのは、僕は嫌い。そんなもので、幾ら見た目を格好良くしても、なんの意味もない。安易だ、と思う。

web でどう表現するかは自由だ、という意見と、スタンダードを守るべきだ、という意見は、web の誕生の頃からあって、(古くは、フレームの是非とかありましたね)そのバランスの中で、スタンダードも進化して今日に至るわけだけれど、アプリケーションとしての web ではなくて、コンテンツとしての web にあっては、依然として僕はスタンダードが守られるべきだと思っている。

その中にあって、Flash は スタンダードでは無いと思う。何よりも、安易な、「コンテンツとしての web の Flash 化」は、幼稚で自分勝手で、web デザイナーが単価を上げて、よく分かっていないクライアントをだまくらかす手段だとさえ思う。HTML で誠実にコーディングした格好良いサイトより、Flash で簡単かつ派手に作った方が、「分かってない人」からは、絶対金が取れる。


安易な Flash 化によって、web の非同期的な心地よさは失われる。本来、コンテンツとしての web はインタラクティブであってはならない、とさえ、僕は思っている。web は本のように、あくまで受動的であるべきだ。メニューを押してからの演出としてのディレイを取られたり、自分のフォント設定を無視して表示されたり、skip を押すまで勝手にムービーを流されたり、そんなお節介は不要だ。世界はお前のサイトのためにあるのではないし、web ページはテレビのチャンネルとは違うのだ。

例えば、ある写真展を見に行こうとして、公式サイトに行くと、全部 Flash でつくってある。文字の大きさは変えられないし、フレームサイズも固定だし、PC の画面は俺様のためにある的な傲慢な作りだ。アクセスの所をクリックすると、これまた Flash の中に、地図が開く。普通、これって印刷して、手に持って会場にいくものでしょう。どうやって印刷しろと?

スクリーンショットを撮って、画像ソフトにペーストして、保存して、印刷した。なんだそれ。web の一番大切な、アクセシビリティーの無視、もしくは、配慮の欠落。
僕も Flash でつくった、お遊びコンテンツは大好きだ。ああいう、小学校の頃、ノートの片隅に書かれて、クラス中を回ったような感じの下らないコンテンツが、エンハンスされて世界規模で出回っているのも面白いと思う。逆に言うと、そんな程度の用途で十分だよ、と思う。

もっと、考えよう。

ビジュアライザ

itunes.jpg
まだ、mp3等が出る前、MMLベースのミュージックプレイヤーの頃から、ビジュアライザが大好きだった。(ビジュアライザという言い方が正しいのかな。iTunesで言う、ビジュアライザ。WMPで言う視覚エフェクト)
初期のものは、いい加減なスペクトルアナライザとか、チャンネル毎のボリュームぐらいしか出なかったのだが、音楽に合わせて動くバーを見ているだけで、なんか楽しかったのだ。
mp3が出て、マシンパワーが上がると、ビジュアライザも進歩して、Music Matchなんかのビジュアライザは、かなり格好良かった記憶がある。音に合わせて、変化する波形を、多段に重ねて、変形させていく処理を見ていると、リアルタイムに芸術作品をつくり出しているような錯覚すら覚える。
そんなビジュアライザの中で、ひときは格好良いのが、iTunesのビジュアライザだ。ビジュアライザの仕事は、たいてい、ある基準点の波形に色を付け、時間経過とともに、変形・変色させていく繰り返しだ。その変形のさせ方、組み合わせ方、色の選び方、変化のタイミング。そういったものの、洗練のされかたが、とても凄い。
リリースノートとかちゃんと読んでいないのだが、アップデートのたびに、ビジュアライザにも手が入っている気がして、いつも新鮮なビジュアルイメージを見せてくれる。下手な、PVよりもずっと良い。
ここまで考えてくると、いつも突き当たるのが、これは機械が生み出している芸術なのか?あるいは、プログラマが生み出した芸術なのか?それとも、受け手が感じている芸術なのか?というようなこと。
ビジュアライザが生み出す映像は、時として、下手に人間がつくるイメージなんて及ばないようなものである。しかも、それを絶え間なく生み出してくる。そうなったときに、個々のイメージの価値は、どれほどのものなのか??全自動で出てくるイメージに、人はどれだけの価値を見いだすんだろうか。

iCon

スティーブ・ジョブズ-偶像復活
そもそも、僕がコンピュータ業界で働こうと思ったのは、ジェフリーヤングが書いた「スティーブ・ジョブズ」(1989年刊)を読んだことがきっかけだった。パーソナルコンピュータの黎明期を描いた、とても良い本だった。

そして、僕は自分が思ったとおり、コンピュータ業界で働いているわけだが、ITバブルとインターネットの勃興に支えられたエキサイティングな時代は終わり、業界もかわり、一言で言うと「あまり面白くなくなった」。

その今に、もう一度原点に帰ってみるのはどうか。先頃出版された「スティーブ・ジョブズ」の続編とも言える、「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」を読んでみた。Apple設立から、取締役会によって追放されるまでの前半を、前書を思い出しながら読み、そして、Pixer設立、Appleへの復帰、そしてiMacとiPodによる栄光の復活劇まで読み進める。


最初のスティーブ・ジョブズを読んでから 15年後に、改めてたどるジョブズの軌跡だが、やはり当時とはだいぶ違う感じ方をした。そして、描かれるジョブズの人間像にも、大きな変化があったように思う。

強烈なビジョンの力を信じ、未来と運命をそれに従わせる力を持った男。そのビジョンは世界を変えると、「信者」達は信じて従ったわけだが、その浮かされたような時代は終わったように見える。しかし、円熟したジョブズのビジョンは、より広い市場へのアプローチを可能にし、iPod や Intel Mac といった、新しい地平を拓いている。

この本の読みどころは、あるいは、後書きの部分かもしれない。印象的だったフレーズを二つ。

あるインタビューで、

コンピュータとテクノロジーについては、「これで世界が変わるわけじゃない。変わらないんだ」
(中略)「わるいけど、それが事実なんだ。(中略)人は、生まれ、ほんの一瞬生き、そして死ぬんだ。ずっとそうだ。これは、技術じゃ、ほとんどまったくと言っていいほど変えられないことだ」

誰あろう、スティーブ・ジョブズの言葉だ。あの、1984のCMフィルムをつくらせた、ジョブズの。

もう一つ、スタンフォード大学の卒業式で

毎朝、「今日が人生最後の日だとしても、今日、する予定のことをしたいと思うか」と自問する

という話。ジョブズにとっての、あらゆることのプライオリティーが変わったのかもしれない。これほどの男が、15年の間にこんなにも変わるのかと思う。とは言っても、同じ祝辞の中で、こうも言っている

「ハングリーであれ。分別くさくなるな」

そこには、革新者としてのジョブズが健在だ。