2018、最も厳しい試練

Photo: "Flower girl."

Photo: “Flower girl.” 2018. Hokkaido, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujinon XF23mm F1.4 R, Velvia filter

何が間違っているって、僕に結婚式の主賓スピーチを依頼する事ほど、間違ったことは無い。

一体、独り身の僕に何をスピーチしろと言うのだ。僕はあなたの信頼できる元上司かもしれないが、結婚生活の先輩では無いのだ。散々考えたが、僕がアドバイス出来ることは何も無い。もう、アレしか無い、3つの袋の話だ。

  1. 給料袋
  2. 堪忍袋
  3. そして、死体袋

いや、ダメだ。プーチン結婚式スピーチとか、その方向性では一生恨まれる。全く骨子が決まらないままに、グダグダと現地まで来てしまった。すすき野のホテルにタブレットとBluetoothキーボードを持ち込んで、悩む。

いや、結婚式だと思うから書けないのだ。プレゼンテーションだと思えばいい、新郎新婦という商品をお客様に紹介し、いかに前途に有望なロードマップが広がっているかを説明すれば良いのだ。プレゼンテーションに最も重要なのは、もちろん物語性だ。そのあたりを押さえれば、だいたいスピーチになるんじゃ無いか?


北海道の結婚式というのは、やっぱりちょっと変わっていて、内地から見ると披露宴が二次会と混じったようなカジュアルな感じ。式場の中庭でちょっとしたバーベキューをしたりリラックスした所で、式が始まる。こういう感じなら、プレゼンにも入りやすいというものだ。用意した原稿はちょっとフォーマルに過ぎるので、少し砕けた感じでやればいいだろう。

全員着席。主賓のスピーチの前に、旦那の祖母から一言。ではなく、得意の詩吟を一節。詩吟?ちょっと待って、プレゼンの前に詩吟。からのプレゼンテーション、難易度高すぎ。

答え合わせ

Crane machine

Photo: “Crane machine” 2011. Las Vegas, NV, US, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

ふと、なんか、答え合わせを求められる年齢なんだな、と思った。

選択肢は一杯あって、あるいは一杯あるように見えるだけなのかもしれないが、なんとなく選んでいくと、方向性を詰められていって、なるような感じになってく。と思ったら、突然それが崩れたりもする。

最近思うのは、「オトナ」っていうのは居ないんだな、という事。子供の頃は、オトナというのが居るものだと思って居たけれど、結局本質的には何も変わらない歳を取ったイキモノが居るだけ。

オトナは言うほど主体的に自分の運命を選んでいないし、かといって、意外と理性の外で何かを決めて、運命をたぐり寄せたりもしている。どっちにしろ、コドモもオトナも、たいして違いは無い。もっと早く、そういう事は教えて欲しかった。


テキサスの片隅のショッピングモールに置かれたクレーンゲームでは、見慣れない珍妙なキャラクター達が、新たなオーナーとの出会いを待っている。こうして選ばれるのを待つのも、一つのカタチ。

僕の腕前では、誰一人連れ帰ることはできないから、試したりはしないけど。

放蕩息子の例え

Photo: "Over the fence."

Photo: “Over the fence.” 2017. Chiba, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujifilm M Mount Adaptor + Carl Zeiss Biogon T*2,8/28 ZM, PROVIA film simulation

なぜか理由は分からないのに、ずっと印象に残っている話というのが有る。

僕はキリスト教系の学校に行っていたので、当然のように礼拝があり、聖書の授業があった。聖書には沢山の例え話が出てくるが、意味が分からないものも多かった。

中でも、奇妙に印象に残っているのが、いわゆる「放蕩息子の例え話」だ。筋は比較的簡単。有るところに兄弟が居て、弟は父の財産の半分を受け取り、旅に出て好きに暮らした。兄は、父の元で真面目に働いた。やがて、財産を使い果たし、一文無しになった弟は故郷に帰ってくる。それを見つけた父は、喜んで祝宴を開くが、兄がこれに文句を言う。なぜ、家を捨てた息子の帰郷を祝ってやるのか。父は、こう諭す。

すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』(ルカによる福音書 15章 31-32節)

なんとも腑に落ちない話だ。宗教的に言えば、きちんと解釈があって、神に逆らった者に対する赦しを表している、と習う。当時僕は、なるほど、そうか、とは思わなかった。(だからクリスチャンにもならなかったのだろう)


でも、今、ふとこの物語を思い出して、もっと深いところで共感を感じる。クリスチャンでは無い僕は、聖書を聖典だとは考えないが、聖書はナラティブ(物語)としてとても優れていると思うようになった。数千年にわたって、人々が蓄積してきたナラティブの深さ。1節 1節は、現代の文学からすれば、至って淡泊で簡潔だが、その向こう側には今と同じ苦悩も、喜びも有る。

そうして、この短い例え話は、失われたものを、再び見いだした人の、純粋な喜びが表されたナラティブだと、僕は思う。失われていたのに、見つかったのだ。喜ぶのは、あたりまえなのだろう。