「ひたすら働いてですね、気が付いたら 20年経ってましたよ。ほんとに、あっという間でした。日本はね、皆そうだった。そういう時代だったんです。」
深夜、タクシー運転手の言葉は、背後に流れていく首都高速の街路の光に吸い込まれていった。
不況のど真ん中で、仕事があるだけいいと思うこともある。そうじゃないだろ、と思うこともある。自分のやりたい事はしている。けれど、何を残せるのだろう、とも思う。多分、なにも残らない。ひたすら働いて、ふと気がついて、僕も誰かにそんなことを言うのだろうか。
伝統とか、文化とか、そういうものは、どうでもよくて、くだらなくて、悪いものだと思っていた。でも、そうじゃない。かといって、伝統と封建の世界がいいということでもない。ただ、そこにはなにかが受け継がれている感じがする。この時代にあって、それは多分、幻想なのだけれど。
「あなたが大人になる頃には、もう 21世紀なのね、、。」
小さい頃、そんなことをよく言われた。そして、世紀は変わり、未来は今日になった。
それは例えば、映画ブレードランナーが示した未来。真っ白い清潔な建物、透明のチューブに車輪のない自動車が通る、そんな未来の絵ばかりをみてきた人間にとって、ブレードランナーの未来は、驚きだった。古いもののうえに、猥雑に積み重なる新しいものという未来。息苦しく、混沌として、偽りと怒りに満 ちたビジュアル。事実は、いくらかそっちに近い。
ア然とするぐらい、昨日の続きとして、21世紀はやってきた。
「21世紀なんだよね」
空を見上げて、そんなことを言ってみても、いまさら気の利かない冗談にもなりはしない。
京都比叡山、21世紀。
手水舎に置かれた水盤には、どう見ても数百年の年季が入っていて、それは冷たく新鮮な湧水に満たされている。太陽が、昔と変わらず、じりじりと石肌を温めている。
そこにプラスティックの柄杓。
それが、21世紀の今日。受け継がれた、未来。
注: てみず‐や【手水舎】神社で、参拝者が手を洗い、口をすすぐための水盤を置く建物。おみずや。[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]