ニャーニャニャニャーニャ

深夜。ディスプレイを睨み付けながら、まったく進まないプレゼンテーションのスライド作り。カーソルが、画面の上を、行ったり来たりしている。頭が オーバーヒートした感じというのは、こんな時のこと。2リットル入りの、ミネラルウォーターのボトルから、ドボドボついで、飲んでみる。胃は息を吹き返す けれど、頭まではすっきりしない。ううう。明日使うんだよな、この資料。つーか、あと20分で明日だが、、。ううう。

そんな時、僕の中で何故か鳴り始めるテーマ。

ニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーニャ
ニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーー

ニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーニャ
ニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーー
(一昔前、ダウンタウンの松本が歌ってたやつ)

近頃、頭の中から、この曲が消えない。しかも、振り付き。

都庁の周りを掃除しているキレイなお姉さん

全国500人の、「都庁の周りを掃除しているキレイなお姉さんファン」の皆さんこんにちは。羊ページです。


都庁の周辺の清掃作業は、当然ながら、専門の業者が外注で行っている。彼らは、蝉がジージーうなる真夏から、ビル風が容赦なく吹き付ける真冬まで、 毎日のように都庁の通路や、中央公園につながる陸橋など、あらゆる部分を掃除している。メンバーは、約6名。ほとんどが、30 – 40代の男性だ。しかし、そのライトブルーの作業着をまとった掃除集団の中に、一人だけ、「お姉さん」がいる。しかも、「キレイなお姉さん」が。

実際、「都庁の周りを掃除しているキレイなお姉さん」というのは、新宿都庁近辺に働く男子であれば、おそらくは誰しもがチェック済なのではないかと 思う。周りの人間に聞いてみても、「ああ、あの人でしょ」と答えが返ってくる。午前11時のフレックスタイム限界時間にさえ、ダッシュしないと間に合わな いような生活をしている人びとが、皆、彼女の事を知っているのだ。よく見てるというか、それぐらい目立つのだ。


さて、ここでポイントなのは、多分、「都庁の周りを掃除している清掃員」という点だと思う。最近は増えてきたといっても、若い女性の清掃員というの は、割と珍しい。というか、率直に言って、なんとなくミスマッチな感じがする。そして、そういうイメージとのギャップというのは、人の興味を惹くものだ。 ジャガーショールームの受け付け嬢。それよりは、タコ焼き屋台の女亭主とか、スキー場の宿の看板娘とか、なんかそういう方が、いい感じがする。

ところで、僕はその「お姉さん」と毎日会うのかというと、実はそんなこともない。業者が清掃している場所は日によって異なるし、僕の出勤時間や出勤 コースは極めて気まぐれだ。だから、月に数回、出くわせばよい方だと思う。それだけに、彼女に会うと、割と得した気分になる。ビル風は強く冷たく、水は手 を切るような冷たさ。そんな冬の早朝に、彼女が一生懸命手すりを磨いている光景は、なんとなく感動的ですらある。(横で同じ作業をしているオヤジは、なん とも思わないんだけどさ)


確か、1ヶ月ぐらい前のことだったと思う。その日は、丁度中央公園陸橋の洗浄日。橋の上では、例の業者が、機械を使って床を磨いている。と、向こう 側から、作業を中断して、彼女が歩いてくるではないか。実は、僕はちゃんと彼女の顔を見たことがなかった。彼女は、いつも帽子を目深に被っているし、敷石 なんかを清掃しているから、ずっと俯きっぱなしなのだ。

すれ違ったとき、僕はどきっとした。顔を上げた彼女を、僕は初めてはっきりと見た。そして、その瞳には、なんと一杯の涙が浮かんでいたのだ。当然、 僕が声をかける筋合いではなく、僕たちは数秒ですれ違った。この瞬間、彼女と僕の距離は近くても、互いに何の繋がりもないのだ。僕は、床を磨いている、清 掃業者の他のメンバーをよけつつ、橋を渡り終えた。あの涙は、、。

まあ、洗剤が目に入ったんだろうけどね。

注:ジャガーショールーム及び、ジャガーショールーム勤務の方に対して、なんら悪意はありません。第一、行ったことないので、よく分かりません。

日本一醜い親への手紙

アダルト・チルドレン(AC)という単語には、いちおう定義があって、アルコール依存症の患者を抱えた家庭環境で育った人を指す。(最近は、これだ けに留まらず、機能不全の問題を抱える家庭に育った人、全般を指すようになった)ACの数は社会環境の複雑化に伴って、年々増加している。一例を挙げるな らば、現職のアメリカ大統領ビル・クリントンも、自らがACであることを公表している。

僕自身も、この定義に従うと、ACである。ACは、現代の社会では、あまり珍しいものではないが、誤解を受けることも少なくない。しかも、その苦し さを他人に理解してもらうのは、極めて難しい。そもそも、ACという概念自体、メジャーになったのはここ数年のことで、多くのAC達は、自分自身がACで あるという事実にさえ、未だ気づいていない。

ここに一冊の本がある。ずいぶん前に買った、「日本一醜い親への手紙」。ここに納められているのは、憎悪、あるいは冷たい怒りに満ちた、100通の 手紙だ。虐待や放置など、あらゆる手段で、心を切り裂かれた人たちの手紙である。手紙を書いた人びとは、年齢も、性別も、職業も様々だが、その大半はおそ らく(広義の)ACと言われる境遇にある。

ACとして生きる。それは、容易いことではない。そのあまりにも厳しい道を歩くAC達の、一瞬の叫びが、この本には書きつけられている。この本を 「くだらない」と片づけることができるならば、あなたはきっと幸せな人だ。僕はこの本を、一度として読み通した事がない。淡々とした、たった数行の表現の 中に、彼らの目に映った地獄が、ありありと見える。「生ぬるい」と言われる時代の、静かな闘いがここにはある。それは、時として、一人の味方さえ居ない、 孤独で、しかも希望の薄い闘いである。

ACには、余分に背負った荷物がある。それを下ろすには、彼ら自身の力によるしかない。しかし、それには時間がいるし、回り道も必要かも知れない。しかも中には、(かなりの割合で)負けてしまうヤツだっている。だからといって、ACに対する同情や、共感は、無駄だ。

ただ、理解を。ここに並んだ100通の手紙の作者達も、同じ事が言いたいに違いない。

「日本一醜い親への手紙」、メディアワークス、主婦の友社 1997。ISBN4-07-307247-1