後になってから分かる

例えば神戸旅行の日記と、韓国出張の日記はかなり頑張って、現地で書いた。しかし、結局は面白くないし、自分で読み返す気にもなれない。大切な部分が、何一つ文章に入っていかない。輪郭をなぞるこ としかできない。それは、書いているときから分かっていた。大切なことを書き留めようとしているのに、ポロポロとこぼしている。それが分かってしまう。かように、人が、「今」を見定める能力というのは、とても低い。

何がその時大切だったのかは、後になってから分かる。僕たちは皆、意外なほど賢くない。だから、余計な記憶がすっかり抜け落ちてしまってから、ようやく後に残った大切ものに気がつく。分かるのは、既に消化された、今となっては取り返しのつかない部分、過去の事。


自分でちゃんと意味が分かったり、理解できたりするときには、たいていのことがあまりにも昔の出来事になってしまっている。こう書くと、僕はさぞか し後悔に満ちた人生を送るタイプに思われるかもしれない。しかし、僕は後悔というのはあまりしない。その時々の事に関して、後から評価するのはフェアじゃ ない、そう思うからだ。平たく言えば、その時、その人は、そういう風にしか分からなかったんだよね、という風に、自分に対しても他人に対しても考える。そ して、あのときこうしていれば、という風には考えないようにしている。

しかし最近、そういう考え方は良くないのかも、と思い始めた。それは、自分で可能性を刈り取っていくような、そんな行為なのかもしれないからだ。以 前は、そういう風に考えられることが、「大人なこと」だと思ってきたのだけれど、単に可能性に賭けることに疲れた人間の、言い訳なのかもしれない。近頃 は、そう思うのである。

何を頼りに生きているのか

自分が何を信じて生きているか、言い換えるならば、何を頼りに生きているのか、を考えてみる。

自分の才能を信じて生きているのではないかと、思う。

他にも、答えはいろいろあるだろう。友達、って言う人もいるだろう。僕には、本当の意味で、大切な友人が何人かいる。しかし、僕は彼らに頼って生き るような真似はしたくない。自分を愛してくれる人のため、そして自分が愛する人のため、と言う人もいるだろう。残念だけど、今の僕にはそう言い切れる人も いないし、将来、それが自分にとっての答えになり得るのかどうかも分からない。自分がかわいいから、あるいは、「生き続けない」勇気が無いから、と言う人 もいるだろう。死にたくないことを頼りに、生きるというのは、間違っていないと思う。でも、今の僕は、その答えには納得できない。


社会に出てしばらく経つけれど、あらゆる領域に於いて「才能」を信じて生きている人と、そうでない人、というのが居るような気がする。そして、自分が明らかに前者に属していると感じる。

自分が昔追っていた夢について、人の話を聞くことがある。夢は、才能を喰う。夢を持ち続けるのであれば、溢れる才能を、夢に与え続けなければならな い。与えるべきものが、全く尽きてしまった時、あるいは、与え続けることに恐怖を抱いたとき、それは「夢」から、「追っていた夢」に変わる。

あるいは、自分の夢が何にあるのか分からない、そういう人の話を聞いていると、言いようのない悲しさを覚える。見つからない夢、折り合わない才能。

僕って才能があるでしょ、凄いでしょ、とかそういうことが言いたいのでは全くないし、僕が、妙な選民意識を持っているわけでもない。「才能」なんて いうものは、ものすごく不安定で、育てにくく、失われやすい。そんな才能とのつき合いを、諦めてしまったり、あるいはその存在にさえ気がつかない人は多 い。しかし、それでも、その「才能」を信じ、「才能」とのつき合いを諦めない人たちが居る。そういう話しだ。

でも、そういう人の数は、そんなに多くないように思う。だって、きっと辛いから。しかも、そんな風に生きている人の多くには、実は本当の才能なんて無いだろう。もちろん、僕にだって。

それでも、僕はそういう風に生きる。考えてみて、そうだと「分かった」。

株大幅安

最近、僕の勤め先の会社の株価が、大幅安という誤報が流れた。結局、株価速報用コンピュータのミスだったが、一瞬、判断が遅れたのか?と思った瞬間でもあった。判断というのは、言うまでもなく他の会社に移るタイミング、ということである。(あと、株売っとけばよかった、という後悔)しかし、流石に外 資系だけあって、「じゃあ、xxさん(僕の名前)、帰りに履歴書でも買いましょうよ。何枚か入ってるから二人で半分ずつ分けましょう」などと言う人も居た。あながち冗談にもならないのが怖い。

コンピュータ業界は、相も変わらず、リストラと買収の嵐だ。業界の展示会のような場で、控え室に集うコンピュータ業界の他社社員の会話を聞くともなく聞いていると、怖くなる。「今年も、そろそろ解雇の季節ですね、、」「去年は、xxさんの部署が丸ごと出されちゃったし、、」どこの会社とは書かないが、コンピュータ業界では 10指に入る大手の社員の会話だ。

あるいは、この間まで一緒に仕事をしていた ISV(独立系ソフトウェア会社)の人たちが、本社の日本撤退によって、いきなり失業する場面に出会ったりする。僕の立場から言えば、取り扱いの製品が 1つ減るだけだが、彼らは職を失う。逆に僕が職を失ったとしても、僕のお客にとっては、同じように業者の選択肢が1つ減るだけにすぎない。残酷かもしれないが、それがコンピュータのビジネス。


僕の周りには、会社をスピンアウトして(人によってはドロップアウトなのかもしれない)、自分の会社を興してしまう人もいるし、他社に転職していく人もいる。知り合いが退社の挨拶をしに来た時に、「うちの会社に来ない?」と誘われることもある。(社交辞令かもしれないが)あるいは、高額な一時金が提示された転職話にお目にかかかり、真剣に揺らぐことだってある。(もちろん、一時金だけが目当てではないが)

大学を出た後の就職先を探すというのは、ある意味、そんなに難しいことではない。どうせ企業のことなんてよく知らないから、賭のような気分で会社を決める。そして、そんなものかぁー、と思いながら勤めるのだろう。ところが、転職となると企業の事もある程度分かっているので考えることが多いし、転職の タイミングや転職先もいろいろ、給与もはっきり違ってくるので難しい。

別に、今の会社がやばいとか、そういう話ではなくて、どんな会社だって成長と倒産(あるいは買収)の可能性があるよね、という話し。今いる会社を見限って、より将来性のある会社に行ったつもりが、転職先が傾いて、見限った方が成長してしまうかもしれない。それは、全く分からない。もし分かったら、働いたりせずに、株で大儲けできるはずだ。


ところで、自分の将来をいろいろ考えられると言うのはよいことだけれど、疲れることもある。自分の所属意識が定まらずに、根無し草のようにフラフラ生きるのは、なんとなく不安だし、自信がなくなる。

僕の場合、今住んでいるところは大学の時から住み始めたので、昔なじみの人、というのが近所に居ない。入社以来、ほとんどメンバーの入れ替えがなかった今の部署は、一番長く同じ人たちと過ごしている場所と言っても良くなりつつある。もし、そこから出ていこうとしたら、正直かなりの抵抗を感じるはずだ。転職と一口に言っても、それほど割り切って決意できるものでもない。

それでも、今回の株価騒動で改めて分かったのは、自分は別に会社に忠誠を誓っているわけではないということだ。自分の所属するチームのメンバーや、 仕事の内容等には愛着がある。あるいは、企業の持っている文化や、価値観にも愛着がある。しかし、それらは会社がまっとうに動いている限りのことであっ て、それが立ち行かなくなれば、自分は会社を見限れる。会社とともには沈まない。


この不況の時代には、誰しも自分の職に不安を持つ。それでも、やはり自分の勤め先を変える可能性、ということに、進んで向き合う人はいないのではないかと思う。それでも、いくらかの確率で、みんなに降りかかってくる問題だ。今回の誤報で、少しはやく、その問題に向き合わされることになったのだ。