9.11

真っ青の空に、オレンジ色の炎が禍々しく燃え上がった。深夜、何人かで久しぶりに酒を飲みに行ったクラブのテレビには、いつものカラオケ画面ではなく、崩落する瞬間の貿易センタービルが繰り返し映し出されていた。

一見、自分たちにはなんの関係もないように見えて、この日が歴史を変える一日になると、なんとなく感じた。漠然とした不安感と、冷たい興奮が漂っていた。
「とにかく、そうめんを喰おう」
「そうそう、とにかく食べないと」
「ゴマ取って」
「むむ、うまいね」
ズルズル。
「うんうまい」
ズルズル。

クラブの若いママがつくった、たぶんこの夏最後のそうめん。(この店が、そうめんを出すとは知らなかった)ベネツィアン・グラスに盛られたそうめん。
「この日に、そうめんを喰ってたこと、きっと忘れないだろうなぁ」
ズルズル。


悲しみは、たやすく利用されて、憎しみへと転化される。悲しみが産み落とした憎しみを、誰が救ってあげられるというのか。”AMERICA UNDER ATTACK” というインポーズが入っていたCNNの画面は、ここ数日で、いつの間にか “AMERICA’S NEW WAR”に変わっている。


「映画みたい、いや、映画どこじゃない」

と誰かが言った。

映画というのは、いつから、そんな血なまぐさいものになったのか。人の想像力は、今や暴力と憎しみに満ちているのか。

僕は、人が死なない物語を書きたい。

注1:歴史を変えるという意味では、この事件は、僕の夏休みの旅行先をトルコから屋久島に変えてしまった。まあ、ささやかなことではあるのだけれど。

懐かしいデモ

反戦デモとか、戦争責任に関する討論番組とか、そういうものを見かけると、真剣にどうこう思うというよりも、「おお、あいかわらず、やっとるなぁ」となにやら懐かしい気分になる。

それが、日米安全保障条約とか、そういうものを大学時代に専攻していた人間の気分だ。


「今日電力会社の前を通ったら、反原発のデモをやってたんですよ」
「はぁ」
「なんか、懐かしかったですねぇ」

それは、核物理学を専攻していた人間の気分らしい。

注1:大学時代に、反戦デモをしていたわけではない。
注2:作者は全共闘世代ではない。
注3:戦争とか原発とか、この手の問題は、意見の相違ではなくて、立場の相違が原因なので、議論ではなく交渉でないと決着は付かない。そういうことに気付いてしまうと、かなり白ける。
注4:他にも、流体力学とか、心理学とか、ロシア美術とか、AVのモザイク職人とか、エンジニアのバックグラウンドは多様だ。

携帯電話をトイレに落とす

皆さんは、携帯電話をトイレに落としたことがあるだろうか。

僕はある。それも2台同時に。(ただし、トイレ使用前)

人間は不思議なもので、あまりに動揺すると、極めて不可解な行動をとりはじめる。その時僕は、とっさに水洗ボタンを押し、必死に水を流したのだった。あたかも、自分の過ちをなきものにしようとするかのように。


水に落とした携帯は、即座に電池を抜き、数日間陰干しを行う。そして、移動通信体の神に祈りを捧げた後(お供えは笹団子)、電源を入れれば、もしかして動くかもしれない。僕のは動いた。2台とも。

注1:とにかく、ショートさせなければなんとかなる訳です。