縄文気象庁

映画の世界では、過去の作品をモチーフにして、新たな作品をつくる、というケースがある。「七人の侍」を西部劇に置き換えた「荒野の七人」はあまりにも有名だ。モチーフにする、というのは好意的過ぎるかもしれない。骨組みをパクッて新しくつくる、ということだ。

ある種の「型」が決まってしまえば、そのバリエーションを増やすことは比較的簡単だ。「7人のアウトローが、村人を守る」という「型」を利用したのが、前述の「荒野の七人」である。

このやり方は、簡単に応用可能だ。例えば、「戦国自衛隊」。これは、自衛隊が戦国自体にタイムスリップする、というめちゃくちゃな設定の映画だが、 「公官庁の組織が、過去にタイムスリップする」という「型」をそのまま利用して、ほぼ無限にバリエーションを考えることができる。

さあ、どんどん考えてみよう。
「元禄警察予備隊」
似たようなテーマを、少しずつずらして取り入れている手堅い作品。しかし、警察予備隊という、きわめて中途半端な組織を題材としたため、どうあがいても感情移入できない。
「平安宮内庁」
これは、とても違和感のない組み合わせ。あまりドラマ性はないので、豪華なセットやキャストで勝負するしかあるまい。興行的には厳しいだろう。
「開国海上保安庁」
テーマは海。領海を侵犯するペリーと戦ったりする。ただし、江戸末期の時代設定に、海上保安庁をプロットとして組み込んでいくのは、かなり困難。
「縄文気象庁」
、、まず無理。

注:作者は「戦国自衛隊」を観たことはない。

江藤淳が死んだ

江藤淳が死んだ。自ら命を絶った。江藤淳の評論を好んで読んだことはないが、名前に聞き覚えはあった。

でも、作家や評論家が自殺しても、誰も不思議に思わない。そこには、まあ、そういうものかな、と思わせるような部分がある。

文章を書く人間には、いろんなタイプがいる。中には、ギリギリのところで何かを削るようにして文章を書く人もいる。もともと、文章を書くというのは、ものすごく厳しい、というより、ほとんど悲惨としか言いようのない作業である。

僕には、文章を書くことで生計をたてる、作家や評論家というものが、果たして職業と言えるのかどうかさえ疑問だ。ものを書く人は、結果として職業にはなっているにしても、やはりもっと違う部分で書かざるおえないのではないか、という気がしている。


書く才能を持った人、というのは、たぶん普通の人とは違った「もの」を見ている。(「日(々)のこと」で五月の雪の作者も書いているが)そして、それをある種の使命感や、衝動によって紙の上に(最近ではキーボード)表現していると思う。

しかし、その才能が見せる「もの」は、時に自分自身を、致命的な場所に追いつめる。「もの」が見える力があるからといって、それに耐えられる力があるわけではない。文章を書く人間は、自分を傷つける程の力をもった、「もの」を見つめながら原稿用紙のマスを埋め、キーボードのキーを叩くのだ。それは、 きっととても残酷で、孤独な闘いだ。


そういえば、高校の時に僕に目をかけてくれた国語の教師が、「君には是非、ヘミングウェイを読んでもらいたい」と言っていたことを、ふと思い出した。あとから考えてみれば、その作家は確か猟銃で自ら命を絶ったのだが。

文化的雪かき

村上春樹のダンス・ダンス・ダンスに、「文化的雪かき」という表現が出てくる。

このページは、さしずめ電子的雪かきのようなものかもしれない。と思った。