払暁

Photo: 払暁 2002. Japan, Contax RX, Carl Zeiss Vario-Sonnar T* 35-135mm/F3.3-4.5(MM), Kodak EBX.

Photo: "払暁" 2002. Japan, Contax RX, Carl Zeiss Vario-Sonnar T* 35-135mm/F3.3-4.5(MM), Kodak EBX.

誰かは忘れたけれど、どこかの写真家が、こんなことを言っていた。
「写真を撮るんだったら、日頃から、いい色を沢山見るようにしろ」
「たとえば、朝、ちゃんと空の色を見て、目を綺麗にしろ」


僕はその言葉を聞いた日から、割と熱心に空の色を見たり、地面に落ちた紅葉を眺めたりした。やがて季節が変わり、葉っぱの色は色あせて、見つめる目が冷たい風で潤むようになった。日々の習慣は、僕の目に、いろんな色の存在を思い出させていた。


ある日の朝、僕はいつもよりだいぶ早く起きた。凄く寒くて、天気が良かった。空の色が、いつもと違って、ちょっと凄い感じだったので、ちゃんと見ておこうと思った。

思い切って、窓を開け放ち、身を乗り出した。冷え切った窓枠をつかむ手がかじかんだが、風は穏やかだった。柔らかい光が、雲の周りに煙っていた。

払暁。素敵な景色に出会えた。

注:ふつ‐ぎょう【払暁】明けがた。あかつき。「―の勤行」[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

東京にも雪が降った

Photo: 雪 2001, Japan, Hokkiado, Nikon F100, AF ZOOM NIKKOR 35-105mm F3.5-4.5D, AGFA Mono-color.

Photo: "雪" 2001, Japan, Hokkiado, Nikon F100, AF ZOOM NIKKOR 35-105mm F3.5-4.5D, AGFA Mono-color.

東京にも雪が降った。

心なしか人通りの少ない都心を歩く。今年の初雪は北海道で見た、というよりも、大雪に降られた。つい、半月ほど前のことだ。その冬が、東京までやってきた。東京の雪は、べたべたして少し汚かった。

雪で大混乱しているいつもの路線を避けて、乗りなれない経路で会社に行ってみる。駅名がよく聞き取れなくて、一つ手前の駅で降りてしまった。

地下鉄の長い階段から地上に出ると、都心は見慣れない雪化粧して、一晩ですっかり冬になっていた。雪を見てもあまりはしゃぐ気分になれなかったの は、このところ風邪気味のせいか。それとも、混む電車が嫌なのか。あるいは、雪合戦をするようなこともなくなってしまったからか。


鼻かぜかと思ったら、熱が上がり始めた。毎年、この季節はこういうものだから、また今年もかと思う。

無理をして、肺炎までいったこともあったから、今年は早めに休むようにした。でも、なんだか、頭がぼうっとしている。おかしいと思って体温計で図ったら、37.8度をさした。急にやる気がなくなった。


翌日、もう一度測ってみたら、同じく 37.8度だった。よくよく見てみたら、体温計は壊れていた。何を測っても、37.8度になるらしい。

まあ、そんなこともあるかと思い、しばらく休んでいることにした。

ブレードランナーの未来、手水舎のプラスティック

Photo: 境内 2002. Kyoto, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Vario-Sonnar T* 35-135mm/F3.3-4.5(MM), Kodak EB-2, F.S.2

Photo: "境内" 2002. Kyoto, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Vario-Sonnar T* 35-135mm/F3.3-4.5(MM), Kodak EB-2, F.S.2

「ひたすら働いてですね、気が付いたら 20年経ってましたよ。ほんとに、あっという間でした。日本はね、皆そうだった。そういう時代だったんです。」

深夜、タクシー運転手の言葉は、背後に流れていく首都高速の街路の光に吸い込まれていった。

不況のど真ん中で、仕事があるだけいいと思うこともある。そうじゃないだろ、と思うこともある。自分のやりたい事はしている。けれど、何を残せるのだろう、とも思う。多分、なにも残らない。ひたすら働いて、ふと気がついて、僕も誰かにそんなことを言うのだろうか。

伝統とか、文化とか、そういうものは、どうでもよくて、くだらなくて、悪いものだと思っていた。でも、そうじゃない。かといって、伝統と封建の世界がいいということでもない。ただ、そこにはなにかが受け継がれている感じがする。この時代にあって、それは多分、幻想なのだけれど。


「あなたが大人になる頃には、もう 21世紀なのね、、。」

小さい頃、そんなことをよく言われた。そして、世紀は変わり、未来は今日になった。

それは例えば、映画ブレードランナーが示した未来。真っ白い清潔な建物、透明のチューブに車輪のない自動車が通る、そんな未来の絵ばかりをみてきた人間にとって、ブレードランナーの未来は、驚きだった。古いもののうえに、猥雑に積み重なる新しいものという未来。息苦しく、混沌として、偽りと怒りに満 ちたビジュアル。事実は、いくらかそっちに近い。

ア然とするぐらい、昨日の続きとして、21世紀はやってきた。
「21世紀なんだよね」

空を見上げて、そんなことを言ってみても、いまさら気の利かない冗談にもなりはしない。


京都比叡山、21世紀。

手水舎に置かれた水盤には、どう見ても数百年の年季が入っていて、それは冷たく新鮮な湧水に満たされている。太陽が、昔と変わらず、じりじりと石肌を温めている。

そこにプラスティックの柄杓。

それが、21世紀の今日。受け継がれた、未来。


注: てみず‐や【手水舎】神社で、参拝者が手を洗い、口をすすぐための水盤を置く建物。おみずや。[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]