BEKKOAME//INTERNET

BEKKOAME//INTERNET の契約をまたまた更新してしまった。これで、4年目にはいろうとしている。

はっきり言って、このプロバイダー、別にいいプロバイダーではない。でも、乗り替えるだけの動機もないのだ。自分のメールアドレスや、このページのアドレスが変わってしまうことが嫌だったので契約更新をした。

インターネットに接続していて不便なのは、メールやホームページのアドレスが、コロコロ変わったり消滅したりしてしまうことだ。新しく作るのも、消すのも、簡単なのだ。

インターネットが普及し始めたころ、何年も会っていない友達からメールをもらったり、いろんなホームページで自由に表現できることの素晴らしさに目を奪われた。しかし、インターネットが完全に日常生活に根付いたいま、インターネットの脆さも見えてくる。

メール友達という関係は、ふとしたことであっさり消えがちだ。ホームページもほったらかしにされ、気がつくと消えている。大昔にやりとりした友達のメールアドレスが、果たして今も有効なのか、分からない。

この 3年間で、プロバイダーを変えなかった友達が何人居るだろうか。(でも、意外と BEKKOAME//INTERNET の更新率は高いような気がする)いつものアドレスで、いつものページが開き、いつものアドレスで、いつもの人にメールが届く。そういうことって、意外と重 要なことではないだろうか。だから、僕はあえて BEKKOAME//INTERNET の契約を更新した。

そう言うわけで、また 1年間はこのアドレスが有効ですので、よろしく。

深夜のタクシー

深夜のタクシー。僕はけっこう乗ることが多い。

夜のタクシーに、あまりお喋りな運転手は好きじゃない。窓の外を流れる自動車の赤いテールランプを、見るともなくぼんやりと座り、その後ろで控えめ のボリュームでかかるAMラジオ、というのが理想だ。それも、「ラジオ深夜便」ならなおさらいい。運転も控えめで、当然、追い越しなんてして欲しくない。

しかし、そういう、僕にとって「好ましいタクシー」というのは二十台に一台あるかないかである。体が傾くほど強烈なコーナーリングをする人、この前 乗せた失礼な客の話をえんえんと語る人(あんたの方が失礼だ)、人の会社の名前を聞く人、、、。当たりのタクシーには、滅多に乗れない。

深夜の空間に、運転手と二人きりで過ごすのだ。よく、タクシー運転手という職業は、お客の中に社会の縮図を見ることができると言われる。しかし、それと同じように、ほんの十数分だけれど、タクシーに乗ると、僕はその運転手の人生の縮図を見ることが出来ような気がする。

僕は、同じ道を、同じ時間帯に、同じコースで、何年も、タクシーを利用している。だから、その同じ道を走る何十人ものタクシー運転手を見てきたのだ。大げさだけど、、、。

客と運転手の立場は微妙だ。一期一会であるだけに、(と言っても、僕の場合は年に数回、同じ運転手に当たることがあるが)、お互いの「強さ」をどう 計るかが微妙だ。つまり、深夜タクシーの運転手という職業は、職業としてサラリーマンより上か、下か、という問題である。基本的には僕は客であり、上なの だが、僕は若いし、そんな僕に乗られる方もいろいろ気分が違うようだ。(特に私服で会社帰り、とかそういうパターンもあるので)

話は簡単で、自分は客より下だと思っている運転手は虚勢を張り、武勇伝を話し、大きな音でラジオをかける。あるいは、頼んでもいないのに、一方的に媚びる。自分が昔乗せたお客の自慢話を、まるで自分の自慢のように話す。

まあ、そういうのはまだいい方で、もう一刻たりともこのシートに座って、働いていたくない、という気持ちがひしひしと伝わってくる人もいる。タクシー運転手なんてうんぜりだ、という人だ。そんな人のタクシーには、僕だって乗りたくない。

一方、プロの運転手としての自信と余裕に満ちている人(やはり個人タクシーの運転手に多い)は、私は私、あなたはあなた、という気持ちのいい距離を持っている。どちらが尊敬に値するか言うまでもない。


先週乗ったタクシーは、非常に「好ましいタクシー」だった。

この不景気で、個人タクシーも最近は駅のタクシー乗り場で客待ちの列に加わっている。僕が乗ったのは、そんな客待ちの中の一台の個人タクシーだった。
「どちらまで」

車内に身を落ち着けた僕に、運転手が訊いたタイミングは、ものすごく素晴らしかった。もしかしたら、彼は、「どちらまで」ではなくて、「こんばんわ」と言ったのかもしれなかったが、どちらにしても素晴らしく自然だった。

運転手は半身を翻して僕を見つめていたが、その目の中には媚びたところも、虚勢も、なかった。つまり、「プロ」の運転手なのだ。

自分が、酷く上品な運転手付きの車を雇ったような気分になった。こいつは素晴らしい。

行き先を告げると、躊躇なく走り始めた。

途中、運転手は一言も喋らなかった。信号で停まったとき、少しだけ自分の席の窓を開けた。確かに、車内は僕が乗ったせいで、若干温度が高くなったのだ。

ラジオからは、ごくごく控えめの音量で「ラジオ深夜便」が流れている。この番組を、家で好んで聴いているわけではない。僕は、タクシーの中で、この番組を聴くのが好きなのだ。


ドアが開いて、料金を払う。「領収書をいただけますか」と自分が言っている後ろで、もう小さなプリンタが領収書を印刷しているのが聞こえている。
「お世話様でした」
「ありがとうございました、おきおつけて」

いつも言うことにしているお礼の一言に、返ってきた返事も、気持ちよかった。

ジョージ・ウォレス

歴史に名を残すのは、英雄か極悪人だ。でも、歴史は英雄と極悪人のためだけのものではない。

ジョージ・ウォレスという名前をきいて、ピンと来る人はあまりいないのではないかと思う。キング牧師や、ケネディ兄弟と同じ時代を生きた政治家だ。

アラバマ州知事として、公民権運動に断固として反対した人物。ベトナム戦争に賛成し、ニクソンと大統領候補の席を争った人物。ケネディを題材に映画を作れば、きっと「悪役その1」ぐらいの役回りになるのだろう。

そんな彼の生涯を扱ったドラマが、最近作成された。僕は、それを見て彼の名前を初めて知った。

このドラマ、別に面白いわけではないし、それほど感動的でもない。筋が進めば進むほど、ウォレスという人物がごく普通の政治家であり、ごく普通のア メリカの白人であったことが分かるばかりだ。彼は彼なりに努力をし、苦難に立ち向かい、大統領にはなれなかったが、平均以上の成功を手にいれた。まあ、別 に面白くはないよね。こんなドラマ見る価値あるのかな?

しかし、僕にとってはこの「つまらなさ加減」がとても印象的だった。何も革新的ではない、何も特別ではない。それは僕たちも同じことだ。自分も含 め、身の回りの誰かが歴史に残るなんてことがあるだろうか?そんなことは、きっとないと思う。僕たちの生涯をドラマになんてしてしまったら、このアラバマ 州知事の生涯に比べてさえ、題材がないだろう。

僕は自分が歴史に残りたいなんて思ったことはない。

ドラマになるような、何かを巻き起こしたいとも思わない。物事を、誰かが勝手に引っかき回して、それを周りのたくさんの人が迷惑しながらどうにか形 にして、それが歴史になるような気がする。例えば公民権運動にしても、キング牧師ははやくに殺されてしまった。本当に歴史を作ったのは、その他の人たちだ と思う。その中には、間違いなく反対者であるウォレスも入るはずだ。僕はむしろ、そういうウォレスのような人に共感を感じる。

自分の人生はどちらに近いのか、と考えれば、間違いなくウォレスの方が僕に近いのだ。その、「つまらなさ加減」。責任を果たし、常識で考え、社会を 支えることは、「つまらない」ものだ。しかし、それは誰かがやらねばならず、大切なこと。嫌な役回りも、役回りの一つには違いないのである。

キング牧師も、ケネディ兄弟も死んだ。殺された。そして、人びとの記憶に残った。
ウォレスはほぼ寝たきりになりながらも、今、アラバマで生きている。人びとは、彼を忘れたけれど、、。