もう一度、『風の歌を聴け』について

もう一度、『風の歌を聴け』について書く。

僕がこの 10年で一番読み返した本は、間違いなく、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』だった。何か面白い筋のある小説ではない。でも、何故か読み続けてきた。色々 な所に持っていったし、何人かの人に貸したこともあるが、今もちゃんと手元にある。薄っぺらい文庫の表紙は既にすり切れて、角は丸くなり、紙は茶色く日に 焼けた。

何故、自分がこの本を読み続けてきたのか、意味を考えたことは無かった。そもそも、この本が何を言おうとしているのか、この本から自分が何を受け取っているのか、それを考えようとしたことさえ無かった。


もう一つの 10年。僕はこの羊ページという場所で、ずっと何かを書いてきた。そこに流れているテーマは、決してポジティブなものばかりではなくて、むしろ、辛いこと ばかり書いていた時期もある。書くことが無くて、食べもののことだけ書いていたこともある。でも、書いているのは楽しかった。

Web がきっかけで、写真を撮るようにもなった。記念に何かを残したい、わけではない。その場所や、その人の姿を借りて、自分の思いもよらなかったものを生み出 すことができるのが、嬉しい。写真は、ちょっと苦しい思いをしながら書いている自分にとって、自信を与え、助けてくれる存在になった。


そして、歩いてきた 10年。学生から、社会人になって、いろんな人に出会いながら生きてきた。決して平坦な子供から少年に至る時代を送ったわけではない僕にとって、その 10年は、自分の周りの世界と、自分の中につくられた世界のギャップをどうにか埋めようと、ぐるぐる迷い続けた長い時間だった。

でも、何かが変わりつつあるような、そんな気がし始めた去年。

今、それは確信になりつつあって、この 10年の答えと、そしてその先を生きていくためのヒントに、気がつきつつあるような、今はそんな思いがしている。僕がどんな言葉を探していたのか、僕が何故書き続けてきたのか、僕がぐるぐる歩いてきた意味は何だったのか。


『風の歌を聴け』に話を戻す。

今朝、ふと部屋の本棚を見て、1995年の「國文學」という雑誌を見つけた。特集は「村上春樹―予知する文学」。何年かぶりに中を見て、その中の、「夏の十九日間―『風の歌を聴け』の読解」に目がとまる。

結論を先に言えば『風の歌を聴け』は、否定から肯定への物語である。

―加藤典洋

答えは、すり切れた『風の歌を聴け』の文庫本と一緒に、10年間、同じ本棚で眠り続けていたのだ。

僕がこの小説から無意識に受け取り続けていた、もう一つのメッセージの正体が、そこにははっきりと書かれていた。そして、その原稿の執筆者の名前。それは、僕が 10年前に大学で文章について一番大切なことを教わった、尊敬する先生の名前だった。

注:國文學、「夏の十九日間―『風の歌を聴け』の読解」、加藤典洋、1995年3月号。

木の枝で凍えて落ちる鳥は、惨めさを知らない

「木の枝で凍えて落ちる鳥は、惨めさを知らない。」
というフレーズを、いつのまにか僕は書き留めていて、それがいったい何を出所にするものなのか、google 先生に訊いても分からない。
意味も果たして、分かっているだろうか。でも、何となく惹かれる、忘れがたい言葉。