村上春樹の新作「スプートニクの恋人」は、いままで彼の小説を読みつづけてきた人にとっては、なんとなく懐かしい感じの作品だ。
そこには、おなじみの「ぼく」がいて、プールで泳ぎ、料理を作る。ささやかなプライドを持って仕事をして、たまに女の娘と寝る。そして「ぼく」は、初めからいろんなものが失われることが決まった世界に、投げ出されている。
(そういえば、この小説では一人称が「僕」ではなく「ぼく」という表記になっている。)
村上の小説は、凄く乱暴ないい方をすれば、みんな同じだ。毎回、同じテーマを突き詰め、その度にどんどん磨いていくような感じだと思う。そうやって出来上がってきたものを読むのは、とても楽しい。
村上の最近の作品には、僕に理解力が欠乏しているせいか、複雑すぎてよく理解できないものが多かった。しかし、この「スプートニクの恋人」はとてもシンプルに、いつものテーマといつもの世界を描き出している。だから、この小説は理屈抜きで面白かった。
いつものテーマと、いつもの世界。
ある人間がきちんと書くことのできる範囲というものは、とても狭いのではないか。最近、そんな風に感じる。それは決して悪いことではなく、むしろ、好ましいことのように思う。
例えば、もし誰かに「あなたの書く文章はみんな同じだ」といわれたら、僕は喜しく思う。本気で書いた文章には、紛れもなく僕自身の中の何かが表現されている。僕は、形のつかめない自分の存在を、少しでも留めておくために、文章を書いてきた。
そこから読み手が受け取るものが同じだとしたら、僕は文章によって、自分自身の位置を定めることができていることになる。あるいは、文章によって自分の位置を定めることができるかもしれない、というあやふやな期待と確信を、少しだけ強く持つことができる。
僕は「スプートニクの恋人」の中に出てくる、古井戸や、電話ボックスや、ロードスの島々の話を読みながら、そんなことを考えていた。
もう一度言うと、「スプートニクの恋人」はシンプルで、懐かしい、小説だ。そして、村上春樹が彼の小説の中で、常に立ち続けてきた位置を、いままでよりも少しだけ鮮明に見せてくれる作品だと思う。
読む人によっては、「また、同じか」と思う人もいるかもしれない。しかし、僕はこの小説の中心に、いままで彼が描き続けてきた物の一番大切な部分を、一瞬だけハッキリと見た気がした。
– 追記 –
ちなみに、この小説の後半ではギリシャの小さな島が舞台になっている。村上春樹の旅行記、「遠い太鼓」を事前に読んでおくと、ギリシャの島々の光景がより鮮明に伝わってきて面白いと思う。