例えば、水墨で描かれた四季の果物。清々とした緑色の瓜、赤々と熟した柿。モノクロームの水墨画でも、色を表現することができる。表現は、手段の制約に縛られるものではない。
そして、もちろんモノクロ写真にも色は写る。見る人が、一番素敵な色に染めるのだ。
高知。照りつける夏の太陽。そのしたでは、ハイビスカスの花が色鮮やかに満開になっていた。
ハイビスカスといえば沖縄というイメージがあったので、少し驚いた。ちなみに、花言葉は「新しい恋」だって。
写真と紀行文
例えば、水墨で描かれた四季の果物。清々とした緑色の瓜、赤々と熟した柿。モノクロームの水墨画でも、色を表現することができる。表現は、手段の制約に縛られるものではない。
そして、もちろんモノクロ写真にも色は写る。見る人が、一番素敵な色に染めるのだ。
高知。照りつける夏の太陽。そのしたでは、ハイビスカスの花が色鮮やかに満開になっていた。
ハイビスカスといえば沖縄というイメージがあったので、少し驚いた。ちなみに、花言葉は「新しい恋」だって。
腹が減った。何を食べる?
でも、ここは京都。どんな店に入ったらよいのか、一見さんにはよく分からない。とにかく、四条まで行ってみた。
四条通に平行に走る、錦小路の商店街をぷらぷら歩いてみる。見知らぬ土地で商店街を歩くのはとても楽しい。京都だからって、なにか特殊なお店ばかり並んでいるわけでは無いのだけれど、でもちょと変わってる。
「卵屋」がある。卵屋?卵しか売っていない。いろんな種類の鶏卵を売っている。あるいは「餅屋」がある。看板に、「餅は餅屋で」と書いてある。本当だ。
そして、錦天満宮にたどりついた。眩い提灯が一面に提がって、まるでお祭りみたいだ。そんなお宮さんが、ファーストフードチェーンと路地を挟んで相対している。それも京都。
さて、その後見つけたとびきり美味しいお店。その話はまた今度。
「清水の舞台から飛び降りる」の清水寺。メジャースポットだけあって、参道には観光客目当てのツーリスティックなお店が並んでいた。たちの悪い原宿みたいになっていて、うんざり。
それでは、いっそ老夫婦のやっている渋めの焼き物屋にでも行ってみようかと思うものの、いったいこの商品は昭和の時代からここに並び続けているのではないだろうかと思うような代物ばかり。
却下。
この日、京都は曇り空。朝から、湿り気のある、強く冷たい風が吹き付けていた。頭の奥がキンッと痛むような、そんな寒さだ。
清水寺は、小高い山の山腹に張り付くようにして建てられている。清水の舞台を過ぎて少し山道を登り、薄暗い空に5重塔のシルエットを望む。ススキが、一足先に過ぎ去った秋に取り残されたように、風に吹かれている。
なんとなく、池波正太郎っぽいシーンが撮れた。
山を下ると、湯豆腐を食わせる店があった。どんな豆腐が出てくるのかは怪しい感じであったけれど、湯気の立ち上る白木の桶に負けた。、、ん?店内はいっぱい?外の席?
目をやると、ふきっさらしの屋台で、カップルが寒さに震えながら薬味をつついている。「外の席」では、どうみても余計寒くなりそう。諦める。どこか暖かいところで熱燗と湯豆腐を、、。
そうこうしているうちに、F100(カメラ)の電池が低温に根を上げ、CPUがエラーを表示して動かなくなった。一眼レフカメラとはいえ、完全に電子制御されているため、CPUが動かないとシャッターも切れない。
進化は、時として脆弱。