東芝のビデオ修理問題

やられる側にすると、こりゃほとんどテロだな、と思った。

東芝のビデオ修理問題である。東芝のビデオを買った人が、「ノイズが出る」とのクレーム修理を依頼したところ、サポート担当者に暴言を吐かれたこと に端を発する事件だ。ビデオが燃えて死にそうになったのなら分かるが、ノイズ。ノイズで死なないだろアホらしい、と思ったが騒ぎは日を追う毎に大きくなっ ている。

まだ、東芝という巨大企業だからこそ、今回のようなダメージにも耐えられたのではないだろうか。もっと規模の小さい会社で、こういう事件が起きて、 もしそれがその会社のメインの商品だったらどうなるだろう。その会社にとっては、死を宣告されたようなものである。今回はそうではないが、こういったこと を、悪意、もしくは企業テロとしてやったら、効果はさらに絶大だ。

今回の事件の経緯は、どれが事実かよく分からないので、背景については当事者双方のページを見ていただきたい。[東芝のアフターサービスについて ]が買った人、[VTRのアフターサービスについて]が東芝広報の見解のページだ。


この事件の特徴は、一個人がメーカー相手にホームページを使って闘っている点にある。これを見て、世の中の「心ある」人たちは、「新しい時代の消費者運動だ」などと言ったりしている。そりゃ、そうだろう。「追いつめる側」から見れば、さぞ愉快に違いない。

で、僕は同じメーカー系の企業に勤める人間として、「追いつめられる側」の気持ちが分かる人間として、非常に複雑な気持ちでこの事件の推移を見ている。そして、どちらかと言えば、東芝に同情している。

この戦いは個人とメーカーが対等に闘っている点で画期的だという人もいる。しかし、本当に対等だろうか。この事件で、一方の当事者であるビデオの購 入者は別になにも失わない。せいぜい、映りの悪い(らしい)ビデオが残るぐらいのものだろう。世間に明かしているのはメールアドレスだけだから、そのアカ ウントから手を引いてしまえば、それで済む。逆に、東芝はどう転んでも大損害である。企業というのは、公的な存在で、しかも東芝ともなれば、巨大すぎて逃 げ隠れのしようがない。少なくとも、今回の事件に関わる担当者は、かなりの貧乏くじを引くことになったはずだ。


一般消費者市場というのは、非常に難しい市場だ。いったい、どんなお客が、どんな用途のために製品を買っていくのか、メーカーには一切コントロール できない。個々の商品の売り上げから得ることのできる利益が非常に薄いので、ビジネス自体も厳しい。あれだけ複雑で高度な工業製品であるビデオデッキが、 いったいいくらで売られているのかを考えれば、恐ろしいぐらいだ。その一般消費者市場の製品サポートともなれば、想像を絶する世界である。厳しい予算と、 意味不明な(恐らく、怒り狂うお客の相手だけでなく、人生相談や話し相手のような電話もあるだろう)コールの中で、サポート要員は日々闘っているのであ る。

実際、僕も少しはサポートに電話をかけたりすることはあるし、対応上、なんだかなー、と思うこともある。しかし、「相手も人間」という一線を忘れな ければ、そんなに酷い対応はされない。更に、僕に全く分からないのは、あっさり他のメーカーのビデオを買えば、それで十分ではないの?ということ。ビデオ を買うのは、メーカーに文句を付けて、改革をさせたいためではない。録画と再生ができれば、それでいいのだ。それが目的であって、メーカーの謝罪は、問題 の本質とはまるで違う。もちろん、僕は今、東芝と闘っている人を「悪い」と言う気はないが、同じ立場に置かれたとしても、僕は絶対にこういうことはしない だろう。買い換えれば済むのだ。

今回は、メーカーとのやりとりを消費者の側がテープにとり、Webで公開した。こういう事件が起こると、メーカーによっては、サポート電話のうち、 トラブルの可能性がある通話を録音するようになるかもしれない。(僕が経営陣だったら、絶対そうする)そうすれば、「言った・言わない」の永遠の課題が解 消できる。そして、そうしたシステムのコストは、そのメーカーの製品の価格に、最終的に跳ね返ることになる。消費者とメーカーの間の緊張関係は、ますます 厳しくなり、もしかしたら顧客審査に合格し、長い長い購入許諾条件にサインしなければ、ビデオひとつ買えなくなるかもしれない。


いずれにしても、今回の事件は、日本の産業界を支える製造業に、少なからぬ衝撃を与えたと思う。そして、この事件が、本当に消費者のためになったの か、ならなかったのかは、ずっと後になって分かることだ。メーカーがサポートにより多くのコストを投じるようになれば、どこかにその分が上乗せされる。取 引には、代償が付き物であり、その掛け金は今回の事件でつり上がった。少なくとも、「消費者の権利の拡大」などど脳天気に喜ぶような、そんな単純な問題で はあるまい。

ただ一つ確かなことは、今、東芝のビデオは「買い時だ」ということだ。きっと値段も安いし、サポートも良いに違いない。サポート部門に電話をかけて、「あのービデオが、、」と言った瞬間に、菓子折を持った担当者がとんでくるかもしれない。

該当の製品は、東芝のA-F88ビデオデッキ。僕は今のところ新しいビデオはいらないので、買わないけど、どうですか?お買い得だと思うよ。

(警告:このページの中での発言は、僕の個人的な考えであることをご了解ください。この文章に異議があり、なおかつ何らかのご意見がある場合には、直接メールにてご連絡ください。また、このページの[使用許諾条件]を熟読されることをお勧めします。)

最悪の晩飯

先週は、かなり最悪の一週間だった。何が最悪かっていうと、晩飯が。

半月ぐらい前から、深夜まで会社に居残ることが多く、その間はずっとコンビニの飯を食っていた。しかし、もはや限界。

コンビニの弁当というのは、とりあえず棚に並んでいるものを見ている分には楽しいし、色とりどりで美味しそうだ。しかし、食べ続けるうちにげんなりして、疲れてくる。確かに、見た目には色とりどりで鮮やかなのだが、どれを食べても、実は味はそんなに変わらなかったりするし、最初は楽しい「体に悪いもの食べてる」という罪悪感も、ほんとに体を壊しそうになってきて洒落にならなくなる。

コンビニ弁当を食べ続けると体がおかしくなる、というような話はよく聞くが、たしかにその通り。なんとも言えない気分の悪さが、「食べるたびに溜まってゆく」ような気がするのだ。火曜日あたりには、発疹まで出てしまった。僕にはとことん合わないらしい。(平気な人も居るみたいだし)

そういえば、コンビニの弁当というのは、食事としてはちょっと変わっている。見た目は「一食」という体裁をとってはいるし、「ほか弁」のようなものと大差なく見える。いわゆる「弁当」である。ところが、食べてみた感触はビニール包装された工場製のパンのようなものに非常に近い。工場で生産された「製品」。


コンビニの食事は、衣食住に縛られていた人間の生活スタイルの一部、「食」をかなり自由にした。しかし、それはそれでやはり無理がある。人間は、結局、ちゃんと食べないと生きていけない。コンビニのサラダを食べてみても(いちおうバランスには気をつかって、サラダなんかは付けるようにしている)、不思議なことに生の「生き物」を食べているような気がしない。大根サラダの大根は、シャリシャリした大根のような歯触りはあるが、その味には、なんというか完全に根っこが無いのだ。こういうものを食べ続けていると、自分が何によって生きているのか、分からなくなってしまう気がする。

それは凄く不思議な感覚だ。貧しくて栄養価の低いものしか食べられない、というのとは違う。言ってみれば、高度にソフィスティケートされた、高価な貧しい感覚。

もちろん、コンビニの弁当そのものを批判する気はない。それは商品・サービスなのであって、それを買うか買わないかは利用者の勝手だからだ。コンビ ニ弁当の開発・製造をしている方々には、これからも頑張っていただきたい。ただ、僕みたいな人間は、これだけではとても生きていけないことが、よく分かった。


さて、週末はお客さんと一緒に焼き肉に。お客さんお勧めの店だけあって、「美味しい」というより「旨い!」をいうような感じでした。ようやく、コンビニ地獄に終止符。

雨はキライ

夜11時過ぎに会社を出ると、外は嫌がらせのような土砂降りだった。

雨の日は、たとえ背広を着ていても(今日は珍しく着ていた)トレッキング・シューズで来るのだが、そんなものでは防ぎようがない程の勢い。どこもかしこも、水浸しだ。

そして、ようやく雨を避けて駅の地下道に入ると、今度はムッとしたジメジメ空気。空気が目に見えるように淀んでいる。

てめえ、働いてる人間になんて仕打ちをしやがる、と意味もなく、相手もなく怒りたい気分だった。

前回の[今日の一言]では、「雨は好きだ」と書いたが、やっぱキライ。カリフォルニアに住みたい。