神戸旅の記録 1

(今回の今日の一言は、旅先から更新しています。そのため、誤字脱字、意味不明な部分があるかもしれませんが、「ライブ」ということで、勘弁してください)

神戸、旅の記録 その1

旅に出ようということになった。村上春樹の単行本、「辺境、近境」に神戸を歩くやつがある。それを、やってみよう、ということだ。同行するのは、[五月の雪]の作者。まあ、五月氏(ごがつし)としてしておく。

出発は、8月のある土曜日。というか、今日だ。

旅にはいつも、CONTAX T2 と替えのフィルムを山ほどもっていくことにしているが、今回は、それに、IBMのノートPC、ThinkPad 240が加わる。文章を書きマシンとして、昨日衝動買いしたやつだ。


まずは、待ち合わせの王道、東京駅銀の鈴で待ち合わせた。前日、僕が12時まで会社にいたので、待ち合わせ時間は当初の11時から、12時に変更。すでに、出足から順調とは言えない。

銀の鈴に近づいた瞬間、なんとなくやっちまった雰囲気がする。帰省ラッシュということで、ものすごい混みよう。新宿アルタ前で待ち合わせた人が、永 遠に相手を見つけられないように、ここでも待ち合わせは困難だ。こんなところで、待ち合わせるんじゃなかった。さらに言えば(もちろん、チケットの予約なんてしていない)この状態で、本当に新幹線なんかに乗れるのか?と非常に疑問。

携帯が圏外という、最悪の待ち合わせ場所、銀の鈴でなんとか五月氏とおちあった。しかし、五月氏は、なめたことに現金を 15,000円しか持っていないらしい。それでは、新幹線代も払えない。とりあえず、銀行にいってさっさと預金を下ろしてもらうことにし、新幹線の切符を買いにいく。

窓口で聞くと、指定席には当分空席がないという。「2時以降になりますけど、、、」ならば、グリーン車で、ということにしたら、あっさり乗ることができた。どんな混雑のときでも、自由席がすし詰めであろうと、グリーン車は空いている。払った人は乗れる。払わない人は、乗れない。分かりやすい。二人とも、こういうことに金を惜しんだりしないので、18,000円だがあっさり買った。

はやくも、オヤジ的、社会人的、金の力にものをいわせる的、怠惰な旅になりつつある。

12:45分、東京駅を発つ。


車内の電光掲示板は、帰省にともなって、飛行機や新幹線は軒並み満席です、というようなことを流しているが、当の新幹線はいたってスカスカだ。やはり、グリーン車だからだろうか。

新幹線は非常に快適、いまさら苦労してどうこうするようなものでもないので、こういう旅が最近はすごくいい。1リットルのビールと、つまみにテングのビーフジャーキー(よく免税店なんかで売られているビーフジャーキー。ただし、テングブランドの、ホットペッパーは他の製品とは一線を画す製品。僕は海外に行ったら必ず買う。しかし、なぜか東京駅でも売っている)を食す。「アメリカ人がつくったものの中で唯一賞賛に値する」との五月氏のコメント。今朝のニュースによれば、西の方は大荒れの天気らしい。われわれは、嵐の中につっこんでゆく。


一時間半、電車に揺られ(というほど、揺れはしないのだが)、もう浜松まで来た。今回の旅では、随時文章を書きつつ、進んでいくことにする。別にたいしたものが書けるわけではないのだが(ずっと後になってからのほうが、物事の本質はよく分かるものだ)、その場で書いた文章も勢いも面白いものだ。

それにしても、新幹線で Think Pad を使うのは、非常に理にかなっているというか、ふさわしいというか、なんとも快適な作業だ。車窓の景色は流れ、その中で書くというのがけっこういいのだ

ここで、今回の旅の予定を明かそう。そもそもの発端は、五月氏が村上春樹の「辺境・近境」の中に書いてある、「神戸まで歩く」を実際にやってみようと言い出したことに始まる。このエッセイというか、小旅行記は、村上春樹が自分の故郷である神戸を訪れ、えんえんと阪急西ノ宮から阪急三宮まで歩いた話だ。

そこで、われわれは、まず、なにかの手段によって、神戸に行き、そこで辺境・近境にある村上があるいた(んじゃないかなぁ、と思うような)ルートを歩いてみよう、ということにした。

ところで、この旅の本来の目的地は、先ほども書いたように三宮だ。しかし、実はそこはこれから降りようとしている、新幹線の駅、新神戸に限りなく近い。われわれは、いきなり目的地に降り立つという、わけのわからない状況になってしまった。


駅に降り立つと、もはや4時。とりあえず、宿を探してうろうろする。村上の本には「さっぱりした新らしめのホテルを探して泊まった」とあるが、「さっぱりしたホテル」どころか、「さっぱりなホテル」しか見つからない。

いちおう、夏休みシーズンということで、いけてそうなホテルはことごとく満室である。

散々歩いて、駅からは果てしなく遠いものの、そこそこなホテルを見つけてチェックインした。ThinkPad で三宮周辺のステーキ屋を探して、食べに行く、、、つもりが五月氏が寝てしまったので、僕はとりあえず、ここまでの出来事を書くことにした。


で、とりあえず夕飯を食べに行く。

神戸牛を食べよう、という趣旨のもと三宮駅へ。(いきなり目的地についてしまった)ホテルから、三宮は非常に近い。(ホテル自体は、新神戸駅と三宮 駅の中間にある)繁華街を歩いてはみたものの、関西の客引き、たこ焼き屋、闊歩するヤクザなどに阻まれて、いまいち店を定めることができない。

そんなときのために、神戸には心強い友人たちがいる、、ということで2人ばかりに電話をかけてみたのだが、いまいちこれというお勧めがでてこない。 考えてみれば、東京にいるからといって、普通の人が美味い寿司屋や、天麩羅屋を知っているわけではないのだ。(とりあえず、いろいろと役に立ちそうもない 情報ありがとう、バスケットボール部ホームページ管理者様。もう一人のほうは、有益な情報をくれたが)

7,000円もするステーキを食いながら(われわれは、二人とも旅行になると金銭感覚が破綻する典型的な日本人だ)、関西は薄味である、醤油をかけて食いたい、というただひたすら感想はそれだけであった。(ちなみに、テーブルに醤油は無かった)

とりあえず、明日はどうするかという計画を練ったが、結論としては、明日はホテルから三宮まで歩き、そこから電車で西ノ宮までいって、そこから三宮を目指そう、という結論に達した。


ホテルに戻ってみると、洋館風の佇まいが、ものの見事にライトアップされている。これが関西風なのかもしれないが、東京で見たらラブホテルだよな、これじゃ。

で、今日はここまで。

なんとかやっていける

親しい間での飲み会も深夜になってくると、思いもしなかったような話しが飛びだしてくる。

正直な話しを聞くことができるのは、無条件にうれしいものだけれど、「人間の本当の姿」みたいなものまで見ることになって、少しショックだったりすることもある。この人が、そんな事をするなんて、、と。


人間というのは、実にいろんなことをする。なかでも、聞いていて心に痛いのは、不誠実なこと。不誠実というのはいろいろあって、他人に対して不誠実 だったり、自分に対して不誠実だったり。どちらにしても、不誠実であることに気がついてしまった瞬間から、その人にとっての苦しい時間が始まる。

もちろん、すべてに対して誠実にしよう、というのは無理な話しだ。何かを得るためには、何かを捨てなければならない。結局、両手に持つことのできる 宝物の数は限られている。それだって、いつ指の隙間からこぼれ落ちてしまうかわからないのだから、何を犠牲にしたって守ろうとする。結局、どう頑張ったっ て、全てに誠実ではいられない。

聞いていて心が痛いのは、きっと話している人自身が傷ついているからだ。そういう事を話しあって何になるんだ、という人もいるかもしれない。けれども、別にどうにかしたくて、話しているわけではない。ただ、そういう事を話すことができる相手が、友達だと、僕は思っている。


さて、僕は、基本的に「人はいいものである」という考え方を大切にしたいし、そう思っている。もちろん、すべての人がそうではないにしても、たいていの人、特に自分の友達に対しては、そう思う。(逆に、そう思えない人は、僕の友達の範疇からは外れるわけだ)

だから、当然のことではあるけれど、そういう場所で、友達がいくら「よくない」「不誠実なこと」を話しても、僕はその友達に対する見方を変えたりはしない。変えたりしない、というのが綺麗すぎるならば、変えたくない、と思っている。


僕が思う「人はいいものである」というのは、「人は悪いことをしない」というのとは、全然違う。むしろ、人は悪いことをきっとする。それどころか、 あまり長くもない僕の人生での経験から言っても、人はろくなことをしない。生きている時間の3分の1は寝ているとしたら、その他の3分の1では、きっとろ くでもないことをしている。

じゃあ、人間ってとんでもないよね、というと、それはたぶん違う。

僕が友達、あるいは自分(ある意味では、他人を赦すよりも、自分を赦す方が難しいと思うが)を赦せるのは、それによって、その人が、あるいは自分が傷つくからだ。

そのことで、心を痛めたり、苦しんだりするはずだ。あるいは、その時はなんとも思わないかもしれないが、ずっと後になってから、自分がしたことの意味が分かるようになってから、心が震えるはずだ。


そういうことがあるから、僕は「人はいいものである」と思える。なんとかやっていける。

バカか?と思われるかもしれないが、それが僕の最も基本的な考え方だ。

江藤淳が死んだ

江藤淳が死んだ。自ら命を絶った。江藤淳の評論を好んで読んだことはないが、名前に聞き覚えはあった。

でも、作家や評論家が自殺しても、誰も不思議に思わない。そこには、まあ、そういうものかな、と思わせるような部分がある。

文章を書く人間には、いろんなタイプがいる。中には、ギリギリのところで何かを削るようにして文章を書く人もいる。もともと、文章を書くというのは、ものすごく厳しい、というより、ほとんど悲惨としか言いようのない作業である。

僕には、文章を書くことで生計をたてる、作家や評論家というものが、果たして職業と言えるのかどうかさえ疑問だ。ものを書く人は、結果として職業にはなっているにしても、やはりもっと違う部分で書かざるおえないのではないか、という気がしている。


書く才能を持った人、というのは、たぶん普通の人とは違った「もの」を見ている。(「日(々)のこと」で五月の雪の作者も書いているが)そして、それをある種の使命感や、衝動によって紙の上に(最近ではキーボード)表現していると思う。

しかし、その才能が見せる「もの」は、時に自分自身を、致命的な場所に追いつめる。「もの」が見える力があるからといって、それに耐えられる力があるわけではない。文章を書く人間は、自分を傷つける程の力をもった、「もの」を見つめながら原稿用紙のマスを埋め、キーボードのキーを叩くのだ。それは、 きっととても残酷で、孤独な闘いだ。


そういえば、高校の時に僕に目をかけてくれた国語の教師が、「君には是非、ヘミングウェイを読んでもらいたい」と言っていたことを、ふと思い出した。あとから考えてみれば、その作家は確か猟銃で自ら命を絶ったのだが。