デヴィ夫人来店

デヴィ夫人来店

Photo: "デヴィ夫人来店" 2007. Osaka, Japan, CONTAX T3 Carl Zeiss Sonnar T* 2.8/35.

大阪のとある街を歩いている。

お勧めのベーグル屋がある、という地元情報はしかし、明確な店の場所と名前が示されておらず、店の前にたどり着くのは容易なことではなかった。これは少し前の出来事であり、iPhone と GPS があまねく”鷲の目”を与える前の話だ。そして、ようやくたどり着いた店は、定休日だった。


行き場のないやるせなさを感じながら、とぼとぼと駅に戻る。広い県道とも、狭い国道ともつかない道を歩いていると、パチンコ屋に行き当たった。いや、正確に言えば、先に凄い看板が目に飛びこび、僕は思わず引き寄せられて足を止め、それがパチンコ屋の看板だったのだ。

デヴィ夫人来店。

パチンコ屋のプロモーションというのは、下手に予算が使えるだけに予想外の豪華さを醸していることがある。上野の裏道を歩いていたら、パチンコ・エヴァンゲリオンの宣伝で、本物の声優の誰だかがトークショーをやっていたのに行き当たったこともある。しかし、デヴィ夫人が来店するというのはどうなのか。パチンコ屋の来客層に、デヴィ夫人の来店は何かアピールするポイントがあるのか。デヴィ夫人は、パチンコ屋の営業で、一体どんなトークをするのか。観衆への呼びかけはやはり「あーた」なのか。


大阪在住でも無ければ、パチンコもしない僕が、実際にデヴィ夫人と出会うことは出来なそうだった。残念ながら、彼女の来店予定は半月ほど後の日付だったのだ。しかし、その看板だけで、もうお腹が一杯だったことも否めない事実ではあった。

unlearn

新年おめでとうございます。

ふり返れば、去年は色んな事が変化した。ここ数年の苦心というのは、やっぱり unlearn することの難しさだったように思う。(日本語で表現したいのだが、あまり良い単語が浮かばない)

それが果たしてうまくいっているのか、あるいは、結局いつものパターンなのか、それは分からないけれど、なるべく自分が新しく居られるようにしたいなと思う。

それでは、今年もよろしくお願いします。

初めて芝居小屋で芝居を見る

Hanazono Shrine

Photo: "Hanazono Shrine" 2008. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL, GR LENS F2.4/28.

新宿一丁目。隣に座る見知らぬ男が噛んでいるガムの、甘ったるい人工的な臭いが、とても不愉快だ。天井は低く、空気の流れは悪い。

「非常口が無いじゃないか」と友人はいささか怒っている。ここで火事が起こったら、逃げられないだろうな、と思う。細い階段だけが唯一の出入り口の地下一階。芝居小屋、というのがぴったりな、80名も入れば一杯の劇場だ。

芝居というものを、芝居小屋という空間で、初めて見た。それは、ちょっと予想外の体験だった。なんというか、極めて個人的な人生の断面を、のぞき見しているような、そんな感覚。


僕たちが最初に、芝居というものに触れるのはテレビの中だ。だから、テレビ以前とテレビ以降では、その印象というか衝撃というか、そういうものはかなり異なるだろう。テレビも映画もない時代に、芝居に触れた人の驚きと楽しさは、相当なものだっただろう。テレビで、中途半端な芝居体験を積み重ねてきた僕にとってさえ、けっこう衝撃的な体験ではあったのだ。

ライブビデオとライブが、全く違う体験であるように、芝居は体験としては、テレビよりも遙かに豊かである。例え、舞台がほんの数メートル四方の狭い、装飾も殆ど無い簡素なものだったとしても。その場限りという再演性の無さ、複製芸術にはない共有感。

しかしこれは、まったくスケールしないし、商売としては楽なものでは無い。結局あの日、観客とスタッフと、どちらが多かったのだ?パトロン無き時代の芸術とは、どうやって成り立つのか。そういうことを、また考えた。