後になってから分かる

例えば神戸旅行の日記と、韓国出張の日記はかなり頑張って、現地で書いた。しかし、結局は面白くないし、自分で読み返す気にもなれない。大切な部分が、何一つ文章に入っていかない。輪郭をなぞるこ としかできない。それは、書いているときから分かっていた。大切なことを書き留めようとしているのに、ポロポロとこぼしている。それが分かってしまう。かように、人が、「今」を見定める能力というのは、とても低い。

何がその時大切だったのかは、後になってから分かる。僕たちは皆、意外なほど賢くない。だから、余計な記憶がすっかり抜け落ちてしまってから、ようやく後に残った大切ものに気がつく。分かるのは、既に消化された、今となっては取り返しのつかない部分、過去の事。


自分でちゃんと意味が分かったり、理解できたりするときには、たいていのことがあまりにも昔の出来事になってしまっている。こう書くと、僕はさぞか し後悔に満ちた人生を送るタイプに思われるかもしれない。しかし、僕は後悔というのはあまりしない。その時々の事に関して、後から評価するのはフェアじゃ ない、そう思うからだ。平たく言えば、その時、その人は、そういう風にしか分からなかったんだよね、という風に、自分に対しても他人に対しても考える。そ して、あのときこうしていれば、という風には考えないようにしている。

しかし最近、そういう考え方は良くないのかも、と思い始めた。それは、自分で可能性を刈り取っていくような、そんな行為なのかもしれないからだ。以 前は、そういう風に考えられることが、「大人なこと」だと思ってきたのだけれど、単に可能性に賭けることに疲れた人間の、言い訳なのかもしれない。近頃 は、そう思うのである。

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