VRが現実化したような、モエレ沼公園 PLAY MOUNTAIN.

Photo: "PLAY MOUNTAIN."

Photo: “PLAY MOUNTAIN.” 2018. Hokkaido, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujinon XF23mm F1.4 R, ACROS+Ye filter film simulation.

北海道に作られているだけあって、モエレ沼公園はアホみたいに広い。牟田の街の公園で見かけたイサムノグチの遊具も、ここでは広々とした場所に、沢山置かれている。


大地を彫刻する、という意味は、実際にここに来てみないと分からないものだと思う。建物と庭を一体としたこのような施設で、ここまでのスケールと完成度と美しさをもって作られたものは、僕にとっては初めてだった。

Play mountainと名付けられた丘を登り、公園の全体像を眺める。VRの無い時代に、これを頭の中だけで構成したのか。ミニチュアを眺めても、こんな体験は想像できない。VRでしか構成し得ないものを実際に体験しているようなリアルさ、逆説的だがそういう感じ。

凡人の感覚が、21世紀の技術による能力拡張によって、どうにか天才の解釈に追いついたような、そんな感じ。これに影響されて創作された色んなものを、僕はそれと気がつかずに体験してきたように思う。


この場所にもう一度行きたいかと言われれば、もう一度行きたい。一回訪れて消化できるような場所では無い事は、明らかだった。大地を彫刻する。その意味は、ここに立たないとやはり分からないものだった。

それに、この日はちょっと雨と風が強すぎた。そんな日も良いけど、晴れた日も見てみたいね。

モエレ沼公園、HIDAMARIの静謐な景色

Photo: "GLASS PYRAMID 'HIDAMARI'."

Photo: “GLASS PYRAMID ‘HIDAMARI’.” 2018. Hokkaido, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujinon XF23mm F1.4 R, Velvia film simulation.

自分の中の、いつか訪れてみたい場所。そのリストにずっと入っていたのが、イサム・ノグチ基本設計のモエレ沼公園だった。僕が、イサム・ノグチ庭園美術館を訪れたのが2006年、それとほぼタイミングを同じくしてモエレ沼公園はオープンしている。


市街から、かなりの時間路線バスに乗って、終点のモエレ沼公園西口で降りる。西口、と言ったって、そこから公園の入り口まではまだ20分近く歩かなくてはならない。雨、そして5月とは言え北海道の寒風が吹き付ける。この季節に、公共交通機関で来るような所では無いのだ。(もっと近くにもバス停があるのだが、期間限定)

東側のアプローチから入ると、公園の直ぐ横は雪捨て場になっていて、なんとも言えない冷気が漂ってくる。その入り口をえんえんと歩き橋を渡ると、特徴的なガラスのドームが見えてくる。イサムノグチ美術館の展示室で嗅いだ土と藁の匂いとは全く異なる、金属とガラスのクリーンなピラミッド。


外の肌寒さに、真っ先にピラミッドの中に入った。悪天候をシャットアウトし、静謐な空間が広がっている。鉄骨の構造と、雨にくぐもったガラスの向こうに広がる景色。この場所は美しいなと思う。広いのか、狭いのか、密なのか、疎なのか。それも居る場所、向ける視線でどんどん変わってくる。ピラミッド、とは言ってもその形状は単なる四角錐ではなくて、公園側に向けて切り欠いたように開かれている。

そして、鐵とガラスで出来た空間には、温かみが漂っていた。

イサム・ノグチ庭園美術館

Photo: 外から眺めたイサム・ノグチ庭園美術館 2006. Kagawa, Japan, Zeiss Ikon, Carl Zeiss Biogon T* 2.8/28(ZM), Kodak 400TX

Photo: “外から眺めたイサム・ノグチ庭園美術館” 2006. Kagawa, Japan, Zeiss Ikon, Carl Zeiss Biogon T* 2.8/28(ZM), Kodak 400TX

僕が香川に行った理由。

イサム・ノグチ庭園美術館。この美術館、事前に往復はがき(のみ)で抽選予約が必要。とても敷居が高い。イサム・ノグチは、彫刻家であり、身近な所では和紙で作られた光の彫刻「あかり」のレプリカを目にすることがあるのではないかと思う。


瀬戸内海に臨む湾と、それをとりかこむ山。美術館から見える山が、石切場になっていて、重機が岩を砕く音が響いてくる。イサム・ノグチが日本での住いとして選んだ牟礼町は、石の町だ。イサムの仕事場がそのまま美術館になっている。ツアー形式の観覧で、集合時間は決められており、小さな看板を頼りにし て、道を幾つも入ってたどり着く。観光バスが横付けするような、そういう観光地とは正反対にある場所だ。

少し早めに着いてしまって、のんびりとあたりの写真を撮ったりする。編み笠を被って、庭園の手入れをしている人を何人か見る。やがて、平日の午前中にもかかわらず、20人近い人々が、パラパラと集まってきた。


美術館は、野外展示場、屋内(土蔵)展示場、イサム・ノグチの住い、そして、庭園に分けられる。そこを、順番に回っていく。全部で 2時間ほどだろうか。そこに展示された作品の数は多く、そのわずかな時間では、とても見きることはできない。というか、受け止めきることが難しい。かといって、気軽に来られるようなロケーションでもない。もちろん、横目に石の塊を眺めてしまえば、あっという間に通り過ぎることも出来る。

僕たちのグループを案内してくれたのは、ちょっと年齢がよく分からない学芸員のような女性。小柄で、自然な痩せ方をしている。黒い髪と、知性を感じる黒い目。今でも綺麗だが、そこには年齢が現れている。可愛いのだけれど、近寄りがたい何かに心酔していて、距離感がよく分からない。そういう子が、学生時代には居たなと思う。こういう場所に、そういう人たちははまるのか、と変な感心をする。


イサムノグチの代表作、Enargy Void は、高い屋根の土蔵の中にしまわれている。たたきは少し湿っていて、ワラと、カビと、土の匂いがする。そういう純粋な日本の匂いの中に立っている、スウェーデン産の石で造られた、このコスモポリタンな芸術に、奇妙な違和感と親和感を感じる。3メートル以上の高さのある物体との距離を、僕は測りかねた。

そこに置いてあるのは、物言わぬ石の彫刻で、冷たく佇んでいるだけだ。しかし、この香川の空気の中で、眺めるその気分。とけ込んでいるというよりも、奇妙な距離感のある、気配。何なのだろう。


著作権の観点から敷地内で撮影は一切禁止なのだが、すれ違った「先生」風の初老の男はカメラを首から下げている。自分がカメラをしまっているのが、 悔しく感じる。なんというか、なんでも撮り放題なのだ。カタチがつくられているから、きっと幾らでも写真を撮ることができる。いくらでも、格好良く。でも、それは所詮自分の力ではないのだけれど。かといって、写真のどれだけが、自分の力だと言うのだろう。素人だから、彫刻の鑑賞眼は無いけれど、ファインダーを通して見てみたら、きっともっといろんなものが見えるのに。今、見きれないものを、あとで見返すことができるのに。そう思うと、悔しく感じる。


イサムが母のために造った庭園を最後に見る。崖を削り、土を盛り、湾を遠くに望むように設えた、それは巨大な彫刻だった。石と緑に囲まれた、急な丘である。その丘の麓に、石で造られた祭壇のような空間があって、切りたての瑞々しい色とりどりの花が一束、生けてある。実に、そこにだけ、色が溢れている。

僕は暫くその小さな生け花を眺めていた。石庭のように整備された彫刻の並ぶ展示場、県外から移築した作品展示用の土蔵、徹底的に改築された居室の内部。石で造られた小川が流れる、庭園。牟礼町の青空に融け込む石の柱と、Energy Void の奇妙な距離感。

そこにあるのは、執拗なまでの拘り。石の声をカタチに引き出す、流れを読む柔らかさ。しかし、融け込まないかたくなさ、僕が受け取ったのは、そういうことだったのだと気がついた。